自由民主党所属の「西村英一」とは異なります。
日本の政治家西村栄一にしむら えいいち
生年月日1904年3月8日
出生地 日本 奈良県五位堂村(現香芝市)
没年月日 (1971-04-27) 1971年4月27日(67歳没)
出身校上海フランス国民高等学校
所属政党(社会民衆党→)
(全国民衆党→)
(全国大衆党→)
(全国労農大衆党→)
(社会大衆党→)
(日本社会党→)
(右派社会党→)
(日本社会党→)
民社党
称号正三位
勲一等旭日大綬章
配偶者前妻・西村幾子
後妻・西村秀子
親族四男・西村眞悟
衆議院議員
選挙区(大阪府第2区→)
大阪府第5区
当選回数11回
在任期間1946年4月11日 - 1971年4月27日
第2代 民社党中央執行委員長
在任期間1967年6月 - 1971年4月27日
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西村 栄一(にしむら えいいち、旧字:西村榮一、1904年(明治37年)3月8日 - 1971年(昭和46年)4月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)、民社党委員長(第2代)、同党書記長。富士政治大学校創設者。正三位勲一等。
衆議院議員であった西村眞悟は四男、西村章三は甥[1]。目次 貧しい農家の生まれで、小学校を出ると上海のフランス高等学院に学ぶ[1]。大阪に帰って保険会社の給仕となり、31歳で大阪支店長[1]。1931年(昭和6年)、全国労農大衆党中央委員[1]。 1933年(昭和8年)堺市議[1]。全国サラリーマン組合を結成したが半年で官憲の解散命令[1]。1946年(昭和21年)戦後初の総選挙で衆院議員に当選、社会党河上派に属し、1948年(昭和23年)芦田内閣の経済安定政務次官[1]。 1953年(昭和28年)2月の衆院予算委員会で吉田茂首相に質問中、吉田が「無礼じゃないか」と叫んだのに対し「何が無礼か。答弁出来ないのか君は」とやり返す。これが癪に障った吉田が思わず「馬鹿野郎」と呟き、いわゆる“バカヤロー解散”を引き起こす[1]。左右社会党の統一に反対、1960年(昭和35年)の民社党結成で西尾末広と行動を共にした[1]。 1962年(昭和37年)の党大会での初の公選で曽祢益と争って書記長、1967年(昭和42年)西尾の後を受けて2代目党委員長に就任[1]。 1969年(昭和44年)富士社会教育センター創立。 1971年(昭和46年)4月27日死去。
1 概要
2 略年譜
3 人物像
3.1 少年時代
3.2 思想・信条、人柄・性格など
3.3 政治家として
4 家族・親族
4.1 西村家
5 著書
6 演じた俳優
7 参考文献
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
概要
略年譜
明治37年(1904年)
3月8日 - 奈良県北葛城郡五位堂村(旧名鎌田村、現香芝市)に父・西村栄太郎、母・良の子息として生まれる[2]。栄太郎の孫にあたる西村眞悟によれば、「父の父は生涯働いたことはなかったのではないかと思われる。」という[3]。生家は水呑百姓で「苦学もできないほど貧乏だった」[4]。出身地の鎌田村は、「大和高田市の近くであり、奈良県といっても西側にすぐ金剛生駒国定公園をのぞむ大阪府との県境に近いところである[5]。国鉄和歌山線の「しもだ」と「なかだ」の中間にあたり、近鉄南大阪線がその南方を走っている。その「たいま」駅の近くにあたり、付近は農村である[5]。」
明治43年(1910年)
生家は材木商をしていたが、6歳のとき破産した。単身東京に出て、親戚の家に預けられる[6]。東京上野の天海小学校という私塾の学校に入り、さらにこの学校が合併になったので下谷小学校に入った[5]。西村が下谷小学校に在籍していたことは間違いないが、それは尋常5年までで、卒業はしていない[7]。大工の仕事を手伝ったり「株屋の小僧」をする[8]。
大正13年(1924年)
1月 - 兼松幾子と結婚[2]。幾子はちょうど女学校を卒業して裁縫の稽古をしていたときであり、西村は釘を扱う金物商をしていたが、結婚当時はなにもしていなかった[7]。幾子の実兄・兼松龍平が上海の繊維会社の工場長をしていたため、結婚後3ヶ月ほどして幾子とともに上海に渡る[7]。上海フランス国民高等学校に学ぶ[7]。上海生活を終えると、北海道に渡り、札幌で中央生命に入社する[7]。
昭和3年(1928年)
- 社会民衆党に入党する[2]。