西村修
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この項目では、プロレスラー、政治家について説明しています。

プロ野球選手については「伊沢修」をご覧ください。

アマチュア囲碁棋士については「西村修 (囲碁)」をご覧ください。

日本政治家西村 修にしむら おさむ
生年月日 (1971-09-23) 1971年9月23日(50歳)
出生地東京都文京区
現職プロレスラー
食育指導[1]
配偶者あり
親族細田彦一(伯叔祖父)
公式サイト ⇒文京区議会議員西村修オフィシャルサイト
文京区議会議員
選挙区東京都文京区
当選回数3
在任期間2011年4月24日 -
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西村 修(にしむら おさむ、1971年9月23日 - )は、日本政治家プロレスラー東京都文京区出身、同区の無所属区議会議員。国民を未病に防ぐには食の改善こそが全てである事を政治の指針とし、学校給食の自然食化に猛烈に力を入れ活動を行っている。

グラウンドでの極技(サブミッション・ホールド)を中心としたプロレスを得意として、そのようなスタイルは、しばしば「西村ワールド」と形容される。
来歴

西村 修
Osamu Nishimura

プロフィール
リングネーム西村 修
ニシム・ラマ
大猷 修
本名西村 修
ニックネームミスター無我
無我の伝道師
無我説法師
無我の継承者
闘う哲学者
自由人
身長186cm
体重105kg
誕生日 (1971-09-23) 1971年9月23日(50歳)
出身地東京都文京区
所属フリー
スポーツ歴野球
バレーボール
スノーボード
トレーナー山本小鉄
馳浩
佐々木健介
藤波辰爾
ヒロ・マツダ
ドン・ジャーディン
カール・ゴッチ
ドリー・ファンク・ジュニア
トニー・セント・クレアー
デビュー1991年4月21日
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錦城学園高校在学中に新日本プロレス学校に入門。卒業後の1990年4月に新日本プロレス入門。
1991年

4月21日、沖縄県糸満市西崎総合体育館の
飯塚孝之戦でデビュー。7分41秒、逆エビ固めに敗れた。

7月17日、留萌市スポーツセンター大会でデビュー2戦目の小島聡と対戦。6分、逆エビ固めで勝利。初勝利を挙げた。

1993年

3月の第4回
ヤングライオン杯に準優勝後、同年8月に米国武者修行に出発。

8月20日にニューヨークに着いて、フロリダに移動。ブライアン・ブレアーゴールドジムでウェイトトレーニング。フロリダの道場でジェフ・ブラッドリー、ショーン・ロイヤルとともにヒロ・マツダに基礎訓練を受ける。一時期、ドン・ジャーディンにも教えを受けた。

1994年

11月ごろに新日本プロレスから帰国命令が出たが、拒否。その結果、新日本プロレスからの送金がストップされた。

1995年

1月にニューヨークに移動し、
ECWやフィラデルフィア、デトロイトなどのインディ団体に出場。

その後、オランダのクリス・ドールマン道場に1か月特訓。そしてイギリス・ウィガンに行き、アスパル・レスリング・ジム(日本での通称はビリー・ライレー・ジム)でロイ・ウッドにコーチを受ける。

ギリシアに移動して藤波に途中経過を報告したところ、ウィガンのジムに藤波も興味を示したため、またウィガンに戻って2人で練習をした。そこで藤波から「無我」の構想を聞かされる。

10月10日に帰国。

10月29日、大阪ACTホールでの藤波の自主興行「無我」旗揚げ戦に出場。シェーン・リスビーと対戦し、19分5秒、ボディへのヒザ蹴り3連発からのノーザンライトスープレックスで勝利した。

11月13日、両国国技館大会でリック・フレアーとシングルで対戦。老獪なテクニックに手も足も出ず、10分17秒、足4の字固めに完敗。

12月13日、無我の博多スターレーン大会でダレン・マロニスと対戦。15分19秒、ワキ固めで勝利。

1996年

10月5日、無我の大宮スケートセンター大会での「キャッチ・ザ・ランカシャーレスリング」トーナメントに出場し、1回戦で
ジョン・パトリックと対戦。9分41秒、ノーザンライト・スープレックスで勝利。同日の準決勝でダレン・フレッチャーと対戦。9分25秒、ノーザンライト・スープレックスからのグラウンド・コブラツイストで勝利。

10月7日、無我のEBiS303大会での決勝戦でシェーン・リグビーと対戦。19分45秒、ノーザンライト・スープレックスで勝利。同日のメインでは優勝者の特権として藤波と対戦。14分43秒、三角絞めに敗れた。

1997年

5月、海外再修行へ出発し、カナダ・カルガリーの
大剛鉄之助のもとで1か月筋力トレーニングした後、欧州CWAマットに参戦。

1998年

1月4日、
東京ドーム大会で凱旋帰国試合を行い、藤波と組んで中西、小島組と対戦。12分39秒、西村がノーザンライトスープレックスで小島に勝利した。

2月7日、札幌中島体育センター別館大会でIWGP王者の佐々木健介に挑戦。中盤まではスリーパー腕ひしぎ逆十字、終盤にはミサイルキック9発を放ち健闘したが、25分20秒、雪崩式ノーザンライトボムからのラリアットに敗れた。

4月には橋本と組んでIWGPタッグ王座に挑戦。

8月にはG1初出場。その後、後腹膜腫瘍により欠場。手術後も治療とリハビリに励む。

2000年

6月2日、
武道館大会の藤波戦で復帰。8月のG1にも出場。2000年からフロリダ州タンパに住みはじめ、カール・ゴッチドリー・ファンク・ジュニアの指導を受けた。

2001年

9月23日、
なみはやドーム大会で藤波と組んでIWGPタッグ王者の天山、小島組に挑戦。26分4秒、西村のジャパニーズ・ レッグロール・クラッチホールドで小島にフォール勝ちし、IWGPタッグ王座を獲得。

10月7日、無我の後楽園ホール大会でドリー・ファンク・ジュニアと対戦し、22分30秒、逆さ押さえ込みで敗戦した。

10月19日、別府ビーコンプラザ大会で武藤、ライガー組を相手にタッグ王座の防衛戦。24分12秒、藤波の足4の字固めで武藤に勝利して防衛に成功。

10月28日、福岡国際センター大会で武藤太陽ケア組を相手にタッグ王座の防衛戦。23分47秒、武藤のシャイニングウィザードに西村がフォール負けしタッグ王座から転落。

2002年

10月14日、東京ドーム大会で
バス・ルッテンと対戦。3分10R、時間切れ引き分け。

2003年

1月4日、東京ドーム大会の第1試合で藤波と対戦。8分10秒、ジャパニーズ・レッグロール・クラッチ・ホールドでフォール勝ち。

8月28日、
大阪府立体育会館大会で中邑真輔と対戦。


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