西村伊作
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西村 伊作
(にしむら いさく)
生誕 (1884-09-06)
1884年9月6日
日本和歌山県
死没 (1963-02-11) 1963年2月11日(78歳没)
東京都
職業建築家画家陶芸家詩人、生活文化研究家、作家
子供石田アヤ(長女)
西村久二(長男)
百合(次女)
ヨネ(三女)
永吾(次男)
ソノ(四女)
ナナ(五女)
西村八知(三男)
西村九和(六女)
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西村記念館

西村 伊作(にしむら いさく、1884年9月6日 - 1963年2月11日)は、日本の教育者、実業家。文化学院の創立者としても知られる。大正、昭和を代表する、建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家。奈良県吉野郡下北山村で山林業、材木商を営む資産家で北山銀行の大株主兼取締役、紀和索道会社取締役。
来歴
誕生から青年期

和歌山県新宮市出身。豪商の父・大石余平、母・ふゆのあいだに長男として誕生。弟に大石眞子(次男)、大石七分(三男)がおり、三兄弟の名は敬虔なクリスチャンであった父親が、聖書に登場するイサク(伊作)、マルコ(眞子)、スティーブン(七分)にちなんで名付けた(伊作自身は生涯無宗教であった)。

母方の西村家は、奈良県下北山村(隣接の和歌山県北山村も含む?)一帯の山林王で[1]、本家に跡継ぎが途絶えたため、祖母もんによって1887年に4歳の伊作が西村家の当主に、父親の余平がその後見人に指名された[2]。余平一家は下北山村の西村家で暮らし始めたが、余平の西洋かぶれの暮らしなどから祖母と合わず、後見人を取り消されたため、再び新宮に戻った。父親は新宮教会を作って布教活動を行なうとともに、子供たちのために幼稚園も付設し[2]、暮らしの洋風化も精力的に推し進めた[3]1889年に新宮が洪水に見舞われ、教会も幼稚園も被害を受けたため、一家は愛知県熱田町に拠点を移した[2]熱田神宮近くに「キリスト教講義所」の看板を掲げて伝道活動を続けながら、亜炭採掘を生業とした[2]。伊作は洋服姿で尋常小学校へ通わされ[4]、目立つ格好からよく苛められた[2]

一家は名古屋市に引っ越し、伊作も転校した。1891年10月28日早朝、南武平町に新設されたばかりの名古屋英和学校(現・名古屋学院)のチャペルに家族で礼拝に訪れたその折に[2]濃尾地震が発生し、両親が崩れた教会の煉瓦の煙突の下敷きになって即死、当時7歳の伊作は重傷を負うも、生還した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この地震で、村の犠牲者は伊作の両親二人だけだった[要出典]。伊作ら子供たちは祖母もんに引き取られ、もんを親権者に伊作は西村家の戸主となり、莫大な財産を相続した[2]。11歳ころに、父の弟である大石誠之助がアメリカから帰国し新宮で医院を開業したのを機に、叔父の元に身を寄せ、新宮町高等小学校へ通う[5]

1898年、遠方からの入学者が多かった広島市の明道中学(1892年-1923年、他の出身者には黒島亀人石田一松ら)に学ぶ。広島には父の妹・井出睦世が牧師の夫ともに住んでいたので、そこから通った。日露戦争に対して非戦論を唱え社会主義思想を持ちビラ配りをした。1903年に中学を卒業したあとは、実家に戻り、家業である山林管理と材木商を継ぐ。伊作は、少年のころから洋風で端正な出で立ちから「異人さんのよう」と言われていた。青年期から独学で絵を描き、陶器をつくり、欧米のモダンリビングを取入れた自邸を設計して住み、またアメリカ留学を終えて帰国した医師である叔父大石誠之助と本格的に生活の改善、欧米化を推進した。1904年に誠之助が開いた新宮初の洋食屋「太平洋食堂」(1年ほどで閉店[3])も手伝った。

大石誠之助の影響を受けて社会主義思想に共鳴し、幸徳秋水堺利彦平民社に拠る社会主義者と交流した。
理想の暮らしを求めて

1905年に、兵役を逃れるため病気を理由にシンガポールへ脱出[3]。半年ほどで日露戦争が終わったため帰国し、1907年に材木問屋の娘、津越光恵と結婚[3]、前年に自らの設計で建てたバンガローで新婚生活を送った[6]1909年にはヨーロッパ各国とアメリカを巡る世界一周の旅をする。1911年に叔父の誠之助を大逆事件で失ったことから、政治的な活動家たちとは離れ[3]、代わりに、1915年に自ら設計した洋風の自邸を再び建て(現在の西村記念館)、与謝野鉄幹与謝野晶子夫妻、画家の石井柏亭、彫刻家の保田龍門、陶芸家の富本憲吉といった芸術家たちを東京から招き、地元作家である佐藤春夫らも交えて、文化人との交流を深めていった[6]1919年に最初の著作『楽しき住家』を出版、1920年には兵庫県御影町に西村建築株式会社を興し(1927年には東京銀座でも開業)、1921年からは、与謝野夫妻の『明星 (文芸誌)』に「『家』のこと」と題した建築論の連載を開始した[6]。伊作が理想とする新しい衣食住の研究のため、与謝野夫妻、堺利彦沖野岩三郎を顧問に「西村芸術生活所」も新設し、芸術的生活の啓蒙雑誌の刊行や、駿河台に日本人に生活改善を教えるためのホテル建設、小田原に芸術家用の文化住宅を集めたコロニーの建設などを計画した[3]
文化学院創設

長女アヤの小学校卒業を機に伊作はあらゆる女学校などを見て回るが自分の教育方針に適する学校がないと考え、娘のために自らが考える真の学校教育を模索し、さまざまな芸術家、文化人との交流のなか、歌人与謝野晶子、画家石井柏亭に当時の学校令に縛られない自由でより創造的な学校を作ることを打ち明ける。両者は大いに賛同し、1921年、ホテル用地として伊作が買ってあった駿河台の土地に[3]文化学院を創立。当時の中学校令や高等女学校令に縛られず、一流人たちによる芸術・学問の教育を行う快活で自由な学校をめざした教育を開始した。国との方針が違ったため補助金はなく、誰からの援助も受けず、すべて伊作自身の資産で運営された[7]。当時、与謝野鉄幹が慶応義塾の教授に就いたこともあり、文化学院は慶應義塾の構成に則って作られた。そのため文化学院の開校式には文部次官と共に慶應義塾塾長も臨席。また、文化学院の歴代教員などの関係者には慶應義塾出身者が多い。広辞苑にのる数少ない学校の一つとなった。

校舎は伊作自身の設計で建てられ、当時の学校建築の常識を離れ、英国のコテージ風の建て物にし、かなりの話題を呼んだ。文化学院の教員としてさまざまな文化人、芸術家たちを招き、文学部長に、与謝野鉄幹、晶子夫妻や、菊池寛川端康成佐藤春夫などがついた。美術は、石井柏亭有島生馬山下新太郎正宗得三郎棟方志功ノエル・ヌエットらが、音楽は、山田耕筰エドワード・ガントレットなど、ほかにも、北原白秋有島武郎芥川龍之介遠藤周作吉野作造高浜虚子堀口大學美濃部達吉ら数々の著名人が文化学院で教えた(2018年閉校)。


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