西本願寺
西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山の寺院。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。本尊は阿弥陀如来。正式名称は龍谷山本願寺、宗教法人としての名称は本願寺である。本願寺住職は浄土真宗本願寺派門主を兼務する。真宗大谷派の本山である東本願寺(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。京都市民からはお西さんの愛称でも親しまれている。
文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。
2023年より銀杏と御影堂、阿弥陀堂の2つのお堂をモチーフにしたブランドロゴとともに、「人はひとり。だからこそ、ご縁を見つめたい。」をタグラインとして定めている[1]。
歴史親鸞の遷化から本願寺東西分立までの歴史の詳細については「本願寺の歴史」を参照
天正19年(1591年)、浄土真宗本願寺派法主で本願寺11世の顕如は、豊臣秀吉により新たに寺地の寄進を受け、本願寺を大坂天満から京都堀川六条に移転させた。宗祖親鸞の廟堂は、慶長8年(1603年)に東山五条坂西大谷に移り、現在「大谷本廟」となっている。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより本願寺は正式に准如(顕如の三男)の西(本願寺派)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。この時、江戸幕府内では本願寺派法主の准如が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから、准如に代わり教如を本願寺派法主にしようとの考えもあったが、浄土真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局分立させることになった、ということになっている。しかし、教如は以前から石山合戦以来の自らの派(後の大谷派)を有しており、宗派内部はすでに完全に分裂状態にあった。
分立当初は准如の堀川六条の「本願寺」は「本願寺」「六条門跡」「本門」「にしもんぜき」などと呼ばれ、教如の烏丸七条の「本願寺」は「信淨院(教如の院号)本願寺」「本願寺隠居」「七条本願寺」「信門(「信淨院の門跡」の意)」「ひがしもんぜき」などと呼ばれた。便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺が「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺も「西本願寺」と通称されるようになった。
幕末の元治2年(1865年)3月、京都を守る剣客集団新選組が境内にある北集会所と太鼓楼に屯所を移し、慶応3年(1867年)6月までその本拠地とした。
現在まで境内地に大きな変化は無いが、1876年(明治9年)に興正寺が真宗興正派として独立した際に、南境内地を割譲している。
宝永8年(1711年)に南総門として作られた総門は3回に渡って移設されている。1898年(明治31年)に境内への類焼防止のために、堀川通側に池や緑地(風致園)を整備するため移設、1911年(明治44年)に池を埋立て広場として再整備するため移設、1959年(昭和34年)の堀川通拡張工事により現在地に移設している。なお、北総門は太鼓楼付近にあったが、本願寺吉崎別院に移設されている。また、新選組が屯所としていた北集会所は、1873年(明治6年)に兵庫県姫路市にある亀山本徳寺に移築され、その本堂となっている。
本願寺の北には日蓮宗大本山本圀寺の境内が隣接しており、両寺の間に道などはなかったのであるが、付近の住民の訴えにより、住民の負担で、島原から大宮通までで止まっていた花屋町通をさらに大宮通から堀川通にまで伸ばす形で新たに道路を開く工事が行われ、1882年(明治15年)に竣工した。
1971年(昭和46年)に本圀寺が山科区に移転した。その後、1986年(昭和61年)になって本願寺はその旧本圀寺境内地を取得して新たに「本願寺北境内地」とした。現在はその敷地内に聞法会館を建てるなどして、主に駐車場として使用している。本願寺の寺基自体は400年以上に渡り移転していない。
1987年(昭和62年)真宗大谷派(東本願寺)は「宗教法人 本願寺」を解散し、「包括宗教法人 真宗大谷派」に吸収されて直属の宗教施設とされ、「真宗本廟」と改称した。これ以降厳密には本願寺は下京においてはこの本願寺(西本願寺)のみだが、現在でもこの通称は用いられている。
2011年(平成23年)4月9日より翌2012年(平成24年)1月16日まで、本願寺御影堂において親鸞聖人750回大遠忌法要が修行された。 国宝。境内南東隅の滴翠園(てきすいえん)内、滄浪池(そうろうち)と名付けられた池に面して建つ、3階建の庭間建築である。江戸時代の絵図には「御亭(チン)」あるいは「御物見」として現れる。3階建であるが、各階は平面の大きさを変え、屋根などの意匠も左右相称を避け、変化に富んだ外観をもつ。寺に遺る江戸時代初期の文書『紫雲殿由縁記』(寛永15年(1638年)成立、延享4年(1747年)増修)には豊臣秀吉の遺構だと記されていることから聚楽第の遺構との説も広く流布したが確証はなく、様式的にもやや新しく、建築史からは否定的意見が多い。一方その1階平面が大書院対面所に共通するから寛永年間(1624年 - 1645年)に本願寺により建てられたのではないかとする説も唱えられたが(平井聖)、飛雲閣1階は一列型書院造の形を示し、一方対面所は3列型で先に触れたように真宗の本堂建築のスタイルを踏襲していると考えられる。こうしたことから両者が似るとするのは無理があり、さらに建築時期、建築理由など十分な説得性にも乏しく、定説とはいえない。飛雲閣を数寄屋と見た場合、元和年間(1615年 - 1624年)創建の桂離宮古書院と比べて洗練さに欠け、また明らかに古様である。
飛雲閣