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西暦(せいれき)とは、キリスト教で救世主と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年を元年(紀元)とする紀年法[1]と、イエス・キリストがユダヤ人として割礼を受けた日を紀元1年1月1日とする紀年法[2][3]がある。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」または「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)
」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。注釈がない場合、現在の日本ではグレゴリオ暦による紀年法を指す[注 1][4]。
西暦には通常は0年は存在しないが、ISO 8601や天文学的紀年法においては、「西暦0年」および「負の西暦年」を設定している(詳細は「#0と負の西暦」を参照)。
なお 西暦元年とイエスの実際の生年には、ずれがある(詳細は「#西暦元年とイエス生年のずれ」を参照)。
西暦は西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会、および後のプロテスタント)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。
しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADの代わりにCommon Era(略:CE、「共通紀元」の意)へ、同時に紀元前(BC)の代わりに『Before Common Era(BCE)』に切り替える動きが広まっている(詳細は「#中立的な表現」を参照)。 西暦の年数は従来からのデファクト・スタンダードであったが、改めて、情報処理における日付と時刻のデータ形式を規定する国際規格 ISO 8601と日本産業規格 JIS X 0301 において、パリにおけるメートル条約の調印年月日を1875年5月20日とすることで西暦の年月日を定義している(ISO 8601#起点)。 西暦は6世紀のローマ[注 2]の神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって算出された[5][6]。525年、ディオニュシウスはローマ教皇ヨハネス1世の委託を受けてキリスト教の移動祝日である復活祭の暦表(復活祭暦表)を改訂する際に、当時ローマで用いられていたディオクレティアヌス紀元(ローマ皇帝ディオクレティアヌスの即位日である284年8月29日を紀元とする。)に替えて、イエス・キリストの受肉(生誕年)の翌年を元年とする新たな紀元を提案した。これはディオクレティアヌスがキリスト教の迫害者であり、その迫害者の名を残す事が疎まれたからである[5][6]。 聖書の記述によると、イエスが復活した日はユダヤ教の過越の祭り(春分の頃の最初の満月の日)の前日から3日目の日曜日(主日)であり、伝承では「ユダヤ暦でニサンの月の14日」(ユリウス暦の3月25日)とされていた。ディオニュシウスはイエスの生誕年を求めるにあたり、ディオクレティアヌス紀元279年が、伝えられるイエスの復活した日の状況と合致することを発見した[7]。そこで、ここから過越の祭りと同日である復活祭の日付が532年で一巡するという当時の知識に基づき、一巡に要する532年にその時のイエスの年齢が「満30歳であった」とする当時の聖書研究者の見解を根拠として、31年を加えた[7]。これにより「ディオクレティアヌス紀元279年=キリスト紀元563年」の等式が成り立ち、この年号を出発点として他の年号が求められた[7]。ディオニシウスはこの年号を「主の体現より (ab incarnatione Domini)」と表した[6]。また、紀元の始点を(イエス生誕と一般的に考えられているクリスマスの12月25日ではなく)1月1日までさかのぼらせた[7]。 イエス・キリストの割礼日を紀元1年1月1日とする紀年法は、割礼年初と称される。佐藤幸治は自著の中で以下のように説明している。イエスはユダヤ人として生まれたので、ユダヤの風習で八日目に神との契約である割礼を受けた。 この重要な儀式がイエスの誕生の12月25日の八日後に行われ、それを機に新しい年が始まるというものである。12月25日の八日後であるから、当時の数え方に従えば、現在の1月1日である。 ? 佐藤幸治、『文化としての暦』1998年、創元社、「西洋の年初」p.69 また、ザ・ガーディアンは、紀元1年1月1日から毎年1月1日には、イエス・キリストの割礼日を祝ってきたということを説明している[8][3]。 西暦1年から524年までは概念上の存在であり、同時代に紀年法として使用されたことはない。その後も長らくこの紀年法は受け入れられず、731年にベネディクト会士ベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史(イギリス教会史)』をキリスト紀元で著してから徐々に普及し、キリスト教会のなかで広く使われ始めたのは10世紀以降であり、一般の人が使い始めたのはヨーロッパでも16世紀に入ってからである[9]。 西暦が国際社会全体で、最も用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国の世界進出や植民地拡大により非キリスト教国でも西暦が普及したからである。 東ローマ帝国などの正教会諸国では10世紀以降、世界創造紀元(『旧約聖書』の『創世記』にある天地創造が基準。西暦紀元前5508年を元年とする)が使用されていた。現在も正教会の幾つかの教会で使用されている。西暦がキリスト教圏すべてで用いられた訳ではないので、注意が必要である。 また紀年法が異なるのみならず、正教圏では20世紀初頭に至るまで西欧とは異なり、グレゴリオ暦ではなくユリウス暦が用いられていた。現在でもアトス山、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会などがユリウス暦を使用している。他方、コンスタンディヌーポリ総主教庁、ギリシャ正教会などは修正ユリウス暦と呼ばれる、月日にグレゴリオ暦と同様の修正を施したユリウス暦を使用している。
定義
歴史
誕生
割礼日
受容
正教圏
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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