西方寺
所在地愛知県碧南市浜寺町2丁目19番地2
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度52分24.5秒 東経136度58分50.8秒 / 北緯34.873472度 東経136.980778度 / 34.873472; 136.980778
西方寺(さいほうじ)は、愛知県碧南市浜寺町にある真宗大谷派の寺院。大浜てらまちと呼ばれる地域にある。
大浜の西方寺、高取の専修坊、高浜の恩任寺は、浄土真宗の「浜の三か寺」と呼ばれた[2][3]。「浜の三か寺」は「三河三か寺」の末寺という意味を持ち、西方寺は勝鬘寺、専修坊は上宮寺、恩任寺は本證寺の末寺とされる[2][3]。 建仁3年(1203年)、三河碧海郡棚尾村に、天台宗の光照寺(こうしょうじ)として創建された。貞永元年(1232年)、念雅僧都の代に親鸞に帰依したことで、天台宗から浄土真宗に改宗した[1][4]。 明応5年(1496年)、碧海郡大浜村の現在地に移り、法応山西方寺(さいほうじ)と改称した[4]。 寛政12年(1800年)、30代慈慶の時に現在の本堂の建築に着工し、完工までに数十年を要した[5]。文久3年(1863年)には鐘楼・太鼓堂・土塀が完成した[5]。 1871年(明治4年)には廃仏毀釈に反対する大浜騒動(鷲塚騒動)が起こり、西方寺も民衆による詰問の対象となった。同年には西方寺の太鼓堂が「新民序」と呼ばれる学校の校舎となったことから、西方寺は碧南市における学校教育発祥の地とされる[5][4]。周辺の各村には「新民塾」と呼ばれる学校がつくられ、これらはのちに小学校になった[6]。 1888年(明治21年)から、近代仏教の先覚者・宗教哲学者である清沢満之が副住職を務めた。満之は満39歳の若さで亡くなった。1914年(大正3年)には本門と玄関が完成した[5]。 清沢満之(きよざわまんし)は明治期に活躍した僧侶・哲学者・宗教家であり、1888年(明治21年)から西方寺の副住職を務めた。2004年(平成16年)10月16日、清沢満之の百回忌を機に清沢満之記念館が開館した[7]。
歴史
光照寺
西方寺
中近世大浜騒動
近現代清沢満之
境内本堂
本堂 - 寛政12年(1800年)着工。
本門 - 1914年(大正3年)完成。
鐘楼 - 文久3年(1863年)完成。
太鼓堂 - 文久3年(1863年)完成。1871年(明治4年)の大浜騒動(鷲塚騒動)の端緒となった。
玄関 - 1914年(大正3年)完成。
手水舎
土塀 - 文久3年(1863年)完成。
弥陀の松 - 樹齢約400年。碧南市天然記念物。
清沢満之記念館
内陣
本門
太鼓堂
手水舎
清沢満之師碑
清沢満之記念館
施設情報
開館2004年10月16日
所在地愛知県碧南市浜寺町2丁目19番地2
プロジェクト:GLAM
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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