西方寺_(碧南市)
[Wikipedia|▼Menu]

西方寺

所在地愛知県碧南市浜寺町2丁目19番地2
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度52分24.5秒 東経136度58分50.8秒 / 北緯34.873472度 東経136.980778度 / 34.873472; 136.980778
山号法応山
宗旨浄土真宗
宗派真宗大谷派
本尊阿弥陀如来
創建年建仁3年(1203年
開基念雅僧都[1]
正式名法応山西方寺
文化財絹本着色證如上人影像(県指定)
阿弥陀如来立像(市指定)
蓮如上人坐像(市指定)
公式サイト西方寺
法人番号7180305004812

テンプレートを表示

西方寺(さいほうじ)は、愛知県碧南市浜寺町にある真宗大谷派寺院大浜てらまちと呼ばれる地域にある。

大浜の西方寺、高取の専修坊、高浜の恩任寺は、浄土真宗の「浜の三か寺」と呼ばれた[2][3]。「浜の三か寺」は「三河三か寺」の末寺という意味を持ち、西方寺は勝鬘寺、専修坊は上宮寺、恩任寺は本證寺の末寺とされる[2][3]
歴史
光照寺

建仁3年(1203年)、三河碧海郡棚尾村に、天台宗の光照寺(こうしょうじ)として創建された。貞永元年(1232年)、念雅僧都の代に親鸞帰依したことで、天台宗から浄土真宗に改宗した[1][4]
西方寺
中近世大浜騒動

明応5年(1496年)、碧海郡大浜村の現在地に移り、法応山西方寺(さいほうじ)と改称した[4]

寛政12年(1800年)、30代慈慶の時に現在の本堂の建築に着工し、完工までに数十年を要した[5]。文久3年(1863年)には鐘楼・太鼓堂・土塀が完成した[5]
近現代清沢満之

1871年(明治4年)には廃仏毀釈に反対する大浜騒動(鷲塚騒動)が起こり、西方寺も民衆による詰問の対象となった。同年には西方寺の太鼓堂が「新民序」と呼ばれる学校の校舎となったことから、西方寺は碧南市における学校教育発祥の地とされる[5][4]。周辺の各村には「新民塾」と呼ばれる学校がつくられ、これらはのちに小学校になった[6]

1888年(明治21年)から、近代仏教の先覚者・宗教哲学者である清沢満之が副住職を務めた。満之は満39歳の若さで亡くなった。1914年(大正3年)には本門と玄関が完成した[5]
境内本堂

本堂 - 寛政12年(1800年)着工。

本門 - 1914年(大正3年)完成。

鐘楼 - 文久3年(1863年)完成。

太鼓堂 - 文久3年(1863年)完成。1871年(明治4年)の大浜騒動(鷲塚騒動)の端緒となった。

玄関 - 1914年(大正3年)完成。

手水舎

土塀 - 文久3年(1863年)完成。

弥陀の松 - 樹齢約400年。碧南市天然記念物。

清沢満之記念館


内陣

本門

太鼓堂

手水舎

清沢満之師碑

清沢満之記念館

清沢満之記念館


施設情報
開館2004年10月16日
所在地愛知県碧南市浜寺町2丁目19番地2
プロジェクト:GLAM
テンプレートを表示

歴史

清沢満之(きよざわまんし)は明治期に活躍した僧侶・哲学者・宗教家であり、1888年(明治21年)から西方寺の副住職を務めた。2004年(平成16年)10月16日、清沢満之の百回忌を機に清沢満之記念館が開館した[7]
展示


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:16 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef