西念寺_(笠間市)
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西念寺

本堂
所在地茨城県笠間市稲田469
山号稲田山
宗旨浄土真宗
宗派単立
寺格別格本山
本尊阿弥陀如来
創建年嘉元2年(1304年
開基頼重房ヘ養(初世)
(寺格としての開基)
宗慶(第四世)
正式名別格本山稲田御坊 稲田山西念寺
別称稲田御坊
稲田禪房
稲田草庵
稲田の草庵
法人番号1050005002647

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西念寺(さいねんじ)は、茨城県笠間市稲田にある仏教寺院浄土真宗別格本山単立寺院。浄土真宗の宗祖・親鸞はこの地で『教行信証』の製作を開始し草稿本を撰述したと伝えられる。浄土真宗立教開宗の聖地として、真宗門徒の崇敬を集めている。
概略
親鸞による東国布教

建永2年2月28日1207年3月28日)、法然の吉水教団門下の親鸞は承元の法難により流罪となり、越後国国府に配流される。建暦元年(1211年)11月に赦免の宣旨が下る。赦免後も2年半ほど越後に留まる。建保2年(1214年[1]常陸国稲田の領主であった稲田九郎頼重[2]の招きに応じて「吹雪谷」と呼ばれたこの地に草庵を結び、「稲田の草庵」と呼ばれる。62、3歳頃に、帰京する[3][4]。東国における布教は、約20年間に渡る。門弟たちの住所が、この草庵を中心とした30kmの同心円内にほぼ収まるため、稲田の地を拠点とし布教したと考えられる[5]。親鸞にまつわる伝承が残される地域の範囲からも、常陸・下総下野の三ヶ国を中心に、広く関東から東北まで布教を行ったと考えられる。
「稲田の草庵」の寺格化

西念寺初世・頼重房ヘ養[6](稲田九郎頼重)が、草庵を念仏道場として受け伝える[7]。第四世・宗慶が嘉元2年(1304年)に、後二条天皇の御宇朝廷に奉達し寺院となる。宇都宮泰綱の遺命により西念寺と寺号を定める[7]
伽藍

本堂内陣中央の須弥壇上の宮殿内に本尊阿弥陀如来立像を安置する。内陣より向って右側の本間壇上に「宗祖親鸞聖人御影像」、左側の本間壇上に「恵信尼公御影像」を安置する。同じく右側の余間壇上に開基「ヘ養上人像」と「七高僧像」(ともに絵像)、左側の余間壇上に「聖徳太子像」(絵像)を奉掛する。

単立寺院として中立性を保つため内陣に特徴があり、大谷派本願寺派の荘厳を用いる。
大谷派様式
本尊 - 阿弥陀如来立像卓類 - 上卓・前卓・御讃卓具足類 - 華瓶・火舎香炉・鶴亀燭台・花瓶・金香炉・土香炉[8]輪灯瓔珞祖師御影像厨子鳴り物 - キン・雲輪・キン台
本願寺派様式
宮殿輪灯金灯籠隅珱珞(宝鐸)外陣香炉御簾恵信尼公御影像厨子
脚注[脚注の使い方]^ 文献により滞在した時期・期間に諸説ある。建保2年(1214年)にまず「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び3年ほど滞在したとする説。建保4年(1216年)に「大山の草庵」(茨城県城里町)を結んだする説。「小島の草庵」を結んだ後に「稲田の草庵」に移ったとする説など。
^ 稲田九郎頼重 - 宇都宮頼綱の弟。
^ 帰京の際に、弟子の善性に草庵を譲ったとする説があり、その後善性の子孫たちは、寺と共に稲田から信濃国を経て越後国に移転したとする。(浄興寺#異説を参照)
^ 「見返し橋」は、稲田の草案の近くを流れる小川にかかっている小さな橋である。親鸞が妻の恵信尼や子どもを遺して京都へ一人で帰ることになり旅立つが、思わずこの橋の上で別れを惜しむ家族を振り返ったと伝えられる。(今井雅晴『神と仏への祈りのこころ』105ページ、長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛司『茨城県の歴史』山川出版社 2003年
^ 参考文献、今井雅晴『茨城と親鸞』P26。
^ 頼重房ヘ養、「らいじゅうぼうきょうよう」と読む。
^ a b 西念寺三門にある「稲田禪房由緒記」より。
^ 土香炉…細部は大谷派のものと異なる。

参考文献

今井雅晴『茨城と親鸞』2008年、
茨城新聞社ISBN 978-4872732306

関連項目

浄興寺


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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