長崎県内では所在・管轄する地域を示す郡名の略称として西彼(せいひ)とも呼ばれる。
人口67,972人、面積49.67km²、人口密度1,368人/km²。(2024年4月1日、推計人口)
以下の2町を含む。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町のほか、下記の区域にあたる。 北部の西彼杵半島は、山がちで自然豊かである。西彼町と佐世保市針尾島の間に架かる西海橋が開通するまでは所謂「陸の孤島」の状態で、船舶以外で佐世保市に行く場合、大村湾を一周しなくてはならなかった。半島の西側に浮かぶ大島、池島などはかつて炭坑で栄え人口も多かったが、鉱業の衰退とともに過疎化が進行。 中部の長与町は長崎市のベッドタウンとして発展しており人口も多く、時津町も中小企業の町として著しく発展を続けており、高齢化が進む他自治体と比較すると、町民の平均年齢は遥かに低い。 東部の多良見町は、他の西彼杵郡各町とは異なる風土であった。これは隣接する諫早市を生活圏としていたことが原因といえる。 琴海町・時津町・長与町については、3町で合併して「琴の海市」を成立させるべく協議を重ねてきたが、2004年11月29日の協議会で長与町が離脱を表明したため、合併協は解散し事実上この3町の合併話は白紙となった。前述の通り琴海町は長崎市に編入したが、時津町・長与町はこのまま単独町制を行なうものとみられている。 知行村数村名
長与町(ながよちょう)
時津町(とぎつちょう)
郡域
長崎市の大部分(戸石町、上戸石町、船石町、中里町、古賀町、松原町以東を除く)
諫早市の一部(多良見町各町)
西海市の全域
概要
歴史
郡発足までの沿革
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での、彼杵郡のうち後の本郡域の支配は以下の通り。(44村)
幕府領長崎奉行4村長崎村、戸町村、高浜村、野母村
藩領肥前大村藩24村伊木力村、長与村、時津村、福田村、式見村、三重村、神浦村、雪浦村、松島村、瀬戸村、多以良村、七釜村、崎戸村、平島村、面高村、黒瀬村、横瀬村、川内村、大串村、下岳村、亀浦村、長浦村、村松村、江島村[1]
肥前佐賀藩15村矢上村、喜々津村、大草村、深堀村[2]、高島[2]、伊王島[2]、沖ノ島[2]、香焼村[2]、蚊焼村[2]、大籠村[2]、土井首村[2]、竿浦村[2]、平山村[2]、小ヶ倉村、黒崎村
幕府領・藩領長崎奉行・大村藩1村浦上村[3]
慶応4年
2月2日(1868年2月24日) - 幕府領が長崎裁判所の管轄となる。
5月4日(1868年6月23日) - 長崎裁判所の管轄地域が長崎府の管轄となる。
明治2年6月20日(1869年7月28日) - 長崎府の管轄地域が長崎県の管轄となる。
明治4年
7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が大村県、佐賀県の管轄となる。