興隆寺
境内
所在地愛媛県西条市丹原町古田1657
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度54分20.4秒 東経133度1分31.2秒 / 北緯33.905667度 東経133.025333度 / 33.905667; 133.025333 (西山興隆寺)
西山興隆寺(にしやまこうりゅうじ)は、愛媛県西条市丹原町古田(たんばらちょうこた)にある真言宗醍醐派の別格本山。仏法山(ぶっぽうさん)、仏眼院(ぶつがんいん)と号す。本尊は千手千眼観世音菩薩。四国別格二十霊場第十番札所、四国三十六不動尊第二十二番札所、四国(東予)七福神(恵美寿尊)、伊予道十観音霊場第二番札所。紅葉の名所で背後の山である「西山」を付して「西山興隆寺」と呼ばれている。 高縄山系の東のふもと、海抜100 mから300 mに位置し、周囲の山々に溶け込んだ景色が美しい。特に紅葉の名所として知られ、「もみじの西山興隆寺」として知られている。紅葉の見頃はその年の気候条件によって若干前後するが、例年11月下旬から12月初旬ころが見頃で、この時期には多くの紅葉狩り客や写真愛好家が愛媛県内をはじめとして各地から訪れる。 創建の経緯は定かでない[1][2]。寺伝によれば、皇極天皇元年(642年)に空鉢上人によって創建されたといい、その後報恩大師、空海(弘法大師)が入山し、桓武天皇の勅願寺ともなったという[3]。源頼朝、河野氏、歴代の松山藩主、小松藩主をはじめとする地元の有力者の尊崇を得て護持されてきた。現在では、真言宗醍醐派の別格本山となっている。 駐車場より少し上がり赤い橋(御由流宜橋)を渡り35段上がると仁王門がある。さらに、鬱蒼とした山中の石段を上がっていくと右手に勅使門があり、その中に客殿庫裡がある。勅使門の右の勝手口から入り客殿の右横奥の庫裡玄関に納経所があるが本堂前の納経所が無人のときは庫裡で納経をしてくれるが、本堂前まで行かないと無人かどうかはわからない。
本尊真言:おん ばさら たらま きりく
御詠歌:み佛の 法(のり)の御山(みやま)の 法(のり)の水 ながれも清く みゆるぎの橋
概要
歴史
境内
六角堂(市指定文化財)
西山四国八十八ケ所(全長約4 km)の1番のお堂と88番のお堂が道路の両脇にある。
御由流宜橋(みゆるぎばし):橋板の裏に光明真言が梵字で書かれていて、現在のは平成14年に修復された当時の住職筆によるもの。無明から光明へのかけはしになっている。
仁王門(山門)
地蔵堂:地蔵石像が鎮座していて、歴代の住職を勤めあげた人々を祀る堂。
牛石・千年杉の古株・お楠狸、有料駐車場(電話で寺の許可を得た体力が不充分な人だけが300円で利用可能)
勅使門・客殿・庫裡:客殿では11月のもみじ祭のとき、湯豆腐・鯛めし・汁粉などの食事処になる。ここからの景色は扇望景と呼ばれる。
本堂(重要文化財)
本堂(重要文化財):本尊(彫眼)と右脇陣の地蔵菩薩立像(玉眼、一木造)および左脇陣の不動明王立像(彫眼、一木造)が並ぶ。さらに、本尊厨子の両脇には28部衆像や石鎚権現三体像などが並ぶ。平成28年10月30日 ? 11月6日の間、55年ぶりに本尊が開帳された[4][5]
大師堂:大師像が拝顔できる。
三重塔(県指定文化財)
鎮守護摩愛染堂:本堂の向って左上にある。
開山堂(祠)
影向杉(別名 子持杉):本尊が舞い降りたと伝えられている二本の杉で、その枝で本尊の台座が造られた。今は切り株になっていて、根元から流れる水は子宝に恵まれるという。
恵美寿堂(祠):南北朝時代に後醍醐天皇の皇子である懐良親王が征西将軍として3年間この地に滞在した際、親王を擁護した修験道の僧たち200人が皇子の守護尊として迎えた恵美寿尊像を祀る(秘仏)。なお祠には「笑いの吹き込み口」がある。
聖天堂
文殊堂(小堂)
阿弥陀堂(祠)
鐘楼
宝物館