西宮神社
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この項目では、兵庫県西宮市にある神社について説明しています。長野県長野市にある神社については「西宮神社 (長野市)」をご覧ください。

西宮神社

拝殿
所在地兵庫県西宮市社家町1-17
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度44分8.5秒 東経135度20分4.6秒 / 北緯34.735694度 東経135.334611度 / 34.735694; 135.334611 (西宮神社)座標: 北緯34度44分8.5秒 東経135度20分4.6秒 / 北緯34.735694度 東経135.334611度 / 34.735694; 135.334611 (西宮神社)
主祭神西宮大神(蛭子命
社格等旧県社
別表神社
本殿の様式三連春日造
札所等神仏霊場巡拝の道第67番(兵庫第2番)
例祭9月22日
主な神事十日戎
おこしや祭
誓文祭
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}西宮神社
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西宮神社(にしのみやじんじゃ)は、兵庫県西宮市社家町にある神社旧社格県社で、現在は神社本庁別表神社

全国に約3,500社あるえびす神社の総本社(名称「えびす宮総本社」)である。地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。
社名

「西宮」という名称の起源について以下のように諸説ある。
えびす神を最初に祀ったと伝わる
鳴尾[1]や古代の先進地域である津門から見て「西の方の宮」という説

京都から見て貴族の崇敬篤き廣田神社を含む神社群を指して「西宮」と称していたが、戎信仰の隆盛と共に戎社を「西宮」と限定して呼ぶに至ったという説

「西宮」とは上述の延喜式内社の大国主西神社の事を指すとの説

祭神

えびす大神(西宮大神・蛭児命) - 第一殿・主祭神。

天照大御神 - 第二殿。

大国主大神 - 第二殿、明治初年に配祀。

須佐之男大神 - 第三殿。

祭神の蛭児命は伊弉諾岐命伊弉諾美命との間に生まれた最初の子である。しかし不具であったため葦の舟に入れて流され、子の数には数えられなかった。ここまでは記紀神話に書かれている内容であり、その後の蛭児命がどうなったかは書かれていない。当社の社伝では、蛭児命は現在の神戸沖に漂着し、「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。
歴史
創建

創建時期は不明だが社伝によると、和田岬の沖に出現した蛭児命の御神像を鳴尾の漁師が引き上げて自宅で祀っていたところ御神託が降り、それによってそこから西の方に御神像を遷して改めて祀ったのが当社の起源だという。

延喜式内社の「大国主西神社」に同定する説がある。現在、境内末社の大国主西神社が式内社とされているが、後述のように西宮神社自体を本来の式内大国主西神社とする説もある。だが延喜式神名帳では菟原郡となっており、西宮神社がある武庫郡ではなく、西宮神社にせよ現在の大国主西神社にせよ、式内社とするには一致しない。ただし武庫郡と菟原郡の境界は西宮神社の約200m西側を流れる夙川でありこの河道の変遷により古代は菟原郡に所属したとする説もある。

式内大国主西神社との関係がいずれとしても、平安時代には廣田神社の境外摂社であり「浜の南宮」または「南宮社」という名であった。廣田神社と神祇伯の白川伯王家との関係から頻繁に白川家の参詣を受けており、既に篤く信仰されていたことが記録に残っている。

平安時代末期、廣田神社の摂社として「夷」の名が初めて文献にあらわれるようになる。そのためこの頃から戎信仰が興ったとの説がある。同時期の梁塵秘抄にも、諏訪大社南宮大社敢国神社と共に、廣田神社末社が南宮とされている。


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