西宮神社
[Wikipedia|▼Menu]

.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、兵庫県西宮市にある神社について説明しています。長野県長野市にある神社については「西宮神社 (長野市)」をご覧ください。

西宮神社

拝殿
所在地兵庫県西宮市社家町1-17
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度44分8.5秒 東経135度20分4.6秒 / 北緯34.735694度 東経135.334611度 / 34.735694; 135.334611 (西宮神社)座標: 北緯34度44分8.5秒 東経135度20分4.6秒 / 北緯34.735694度 東経135.334611度 / 34.735694; 135.334611 (西宮神社)
主祭神西宮大神(蛭子命
社格等旧県社
別表神社
本殿の様式三連春日造
札所等神仏霊場巡拝の道第67番(兵庫第2番)
例祭9月22日
主な神事十日戎
おこしや祭
誓文祭
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}西宮神社
テンプレートを表示

西宮神社(にしのみやじんじゃ)は、兵庫県西宮市社家町にある神社旧社格県社で、現在は神社本庁別表神社

全国に約3,500社あるえびす神社の総本社(名称「えびす宮総本社」)である。地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。
社名

「西宮」という名称の起源について以下のように諸説ある。
えびす神を最初に祀ったと伝わる
鳴尾[1]や古代の先進地域である津門から見て「西の方の宮」という説

京都から見て貴族の崇敬篤き廣田神社を含む神社群を指して「西宮」と称していたが、戎信仰の隆盛と共に戎社を「西宮」と限定して呼ぶに至ったという説

「西宮」とは上述の延喜式内社の大国主西神社の事を指すとの説

祭神

えびす大神(西宮大神・蛭児命) - 第一殿・主祭神。

天照大御神 - 第二殿。

大国主大神 - 第二殿、明治初年に配祀。

須佐之男大神 - 第三殿。

祭神の蛭児命は伊弉諾岐命伊弉諾美命との間に生まれた最初の子である。しかし不具であったため葦の舟に入れて流され、子の数には数えられなかった。ここまでは記紀神話に書かれている内容であり、その後の蛭児命がどうなったかは書かれていない。当社の社伝では、蛭児命は現在の神戸沖に漂着し、「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。
歴史
創建

創建時期は不明だが社伝によると、和田岬の沖に出現した蛭児命の御神像を鳴尾の漁師が引き上げて自宅で祀っていたところ御神託が降り、それによってそこから西の方に御神像を遷して改めて祀ったのが当社の起源だという。

延喜式内社の「大国主西神社」に同定する説がある。現在、境内末社の大国主西神社が式内社とされているが、後述のように西宮神社自体を本来の式内大国主西神社とする説もある。だが延喜式神名帳では菟原郡となっており、西宮神社がある武庫郡ではなく、西宮神社にせよ現在の大国主西神社にせよ、式内社とするには一致しない。ただし武庫郡と菟原郡の境界は西宮神社の約200m西側を流れる夙川でありこの河道の変遷により古代は菟原郡に所属したとする説もある。

式内大国主西神社との関係がいずれとしても、平安時代には廣田神社の境外摂社であり「浜の南宮」または「南宮社」という名であった。廣田神社と神祇伯の白川伯王家との関係から頻繁に白川家の参詣を受けており、既に篤く信仰されていたことが記録に残っている。

平安時代末期、廣田神社の摂社として「夷」の名が初めて文献にあらわれるようになる。そのためこの頃から戎信仰が興ったとの説がある。同時期の梁塵秘抄にも、諏訪大社南宮大社敢国神社と共に、廣田神社末社が南宮とされている。この南宮が現在の西宮神社のことであり、廣田神社の境外摂社である「南宮神社」が現在でも西宮神社の境内にあるのはその名残りである。西宮傀儡師。摂津名所図会(18世紀)より。西宮神社の雑役奉仕のかたわら神社の札を持って諸国を巡り、人形を操りながら信仰を広めた。1690年ころには、産所と呼ばれる神社の周囲に約40軒の傀儡師が住んでいた[2]
中世・近世

神人として人形繰りの芸能集団「傀儡師」が境内の北隣に居住しており、全国を巡回し、えびす神の人形繰りを行って神徳を説いたことにより、えびす信仰が全国に広まった。境内に祀られる百太夫神は傀儡師の神である。中世に商業機構が発展すると、海・漁業の神としてだけでなく、商売の神としても信仰されるようになった。

天文3年(1534年)、兵火に掛かり尽く焼失する。

慶長9年(1604年)には豊臣秀頼によって表大門(赤門、重要文化財)が再建され、慶長9年から慶長14年(1604年 - 1609年)の間に本殿、拝殿なども再建された。慶長15年(1610年)には秀頼によって「御戎之鐘」が奉納されている。

江戸時代には、徳川家綱により焼失した本殿が再建されている。また、全国に頒布していたえびす神の神像札の版権を江戸幕府から得て、隆盛した。
近代以降

1870年明治3年)、西宮戎社と呼ばれた当社であるが、『摂津志』などの記載により「大国主西神社」と改称した(現在のえびす神は実は大国主であるとする説も古代からあった)。1872年(明治5年)3月、官幣大社となった廣田神社から分離独立し、後に村社に列せられた。

1874年(明治7年)6月、大国主西神社(現・西宮神社)は県社に昇格する。この頃、境内末社の大己貴社こそが実は大国主西神社であるとする説が挙がり、教部省は同年8月に大国主西神社(現・西宮神社)の県社指定を取り消した上で、大国主西神社を西宮神社に、末社の大己貴社を大国主西神社に改称し、両神社とも廣田神社の末社とするとの通達を出した。

これに対して西宮神社と氏子総代は教部省に異議申立てを行った。しかし、同年11月に出された通達は、大国主西神社を西宮神社に、末社の大己貴社を大国主西神社に改称し、両神社とも廣田神社の末社とするが、両神社とも県社に指定するとのもので、西宮神社としては不満足な結果であった。そこで西宮神社からは、大己貴社は元々不動堂であって本来の式内社・大国主西神社ではなく今回の改称は誤った説に基づくものである[3]と上申したが、教部省は(本来の大国主西神社の所在が判明するまでという条件付きではあったが)その上申を拒否した。

最終的には翌1875年(明治8年)4月に、大国主西神社を西宮神社に、末社の大己貴社を大国主西神社に改称し、両神社とも廣田神社の末社とするが、両神社とも県社に指定する、また、西宮神社は廣田神社とは別に神主を定め、社務と社入も別途としても良い、との通達が出されなんとか西宮神社の独立は守られた。

太平洋戦争中の1945年昭和20年)8月6日に行われた第5回西宮空襲によって境内に小型爆弾2発、焼夷弾300発以上が落下し、旧国宝の本殿などが焼失した。

戦後に神社本庁別表神社に加列されている。だが、社名の改称問題は放置され、そのまま現在に至っている。

1961年(昭和36年)11月、本殿、拝殿が再建される。

1995年平成7年)の阪神・淡路大震災で境内は大きな被害を受けるが、2000年(平成12年)に復興する。
境内本殿

本殿 - 三連春日造で造られており、三棟は繋がっている。向かって右から第一殿となっている。

第一殿 - 1961年昭和36年)11月再建。

第二殿 - 1961年(昭和36年)11月再建。

第三殿 - 1961年(昭和36年)11月再建。


拝殿 - 1961年(昭和36年)11月再建。

青銅製の馬一対 - 1899年明治32年)11月に白鷹酒造の辰馬悦叟が奉納したもの。製作者は東京皇居前広場にある大楠公像の馬の作者である後藤貞行。

社務所 - 阪神・淡路大震災で倒壊後、1998年平成10年)に再建される。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:53 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef