西大寺鉄道
[Wikipedia|▼Menu]

西大寺鉄道
種類株式会社
本社所在地 日本
岡山県上道郡西大寺町西大寺359ノ2[1]
設立1910年(明治43年)7月31日[1]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業[1]
代表者社長 岡野桂太[1]
資本金770,000円(払込額)[1]
特記事項:上記データは1943年(昭和18年)4月1日現在[1]
テンプレートを表示

西大寺鉄道(さいだいじてつどう)は、かつて岡山県岡山市西大寺市(現在は岡山市に合併され岡山市東区)の間を結んでいた鉄道路線、およびその運営会社である。

914mmという特殊軌間を用いた鉄軌道の中でも最後に残った路線として知られる。「西鉄」(さいてつ)と略称され、地元民には「けえべん」の愛称で親しまれた。

並行バス路線がなかったことからその最終期まで一貫して旅客輸送量が多く、軽便鉄道としては良好な営業成績を保っていたが、1962年国鉄赤穂線伊部 - 東岡山間の開通により、同線との競合を避けるため廃止された。

末期には子会社であった両備バスに合併。両備バス西大寺鉄道線となった。
歴史

西大寺市北部を通った山陽鉄道(現JR山陽本線)が敷設された当時、西大寺地方は海運や吉井川の舟運に恵まれており、鉄道敷設の必要性は低かった。しかし、日清戦争での勝利や好景気に次いで起こった日露戦争などによる影響で、地方産業の開発機運が高まり、地方鉄道の開設の機運も高まっていた。そこで、当時の西大寺町長、山口誠孝が有志とはかり、西大寺軽便鉄道の敷設を計画、1911年に観音 - 長岡間が開業した[2]

西大寺鉄道は、軽便鉄道(地方鉄道)として日本唯一の914mm軌間を持つ鉄道[注釈 1]であった。この軌間は、1900年代 - 1930年代にかけて北部九州に発達した馬車鉄道軌道で多く用いられたが、本州では西大寺以外に戦前の石川県下の馬車鉄道で採用例があるのみで、西大寺軌道がわざわざ採用した動機は不明である。

「開業時に、当時914mm軌間であった熊本県の菊地軌道(のち熊本電気鉄道)から中古車両その他を譲り受けたことによるもの。」という説があるが、菊池軌道からの中古車両はほとんど1926年1月(8・9号機関車[注釈 2]のみ1927年2月)譲受で開業から14年ほど経過している[3]ので無理がある。鉄道省文書(国立公文書館所蔵)によれば1907年(明治40年)に下付された軌道敷設特許状では動力電気、軌間1067mmであった。しかし諸事情から動力蒸気、軌間762mmに変更し[4]、さらに「(762mm)軌幅ニテハ客貨車ノ容積矮小ニシテ乗客ノ不便少ナカラス貨物ノ輸送力薄弱ト相心得是等ノ欠点ヲ補ヒ且一層運搬ノ安全ヲ期シ軌幅(914mm)ニ致シタク」[5]を理由として軌間変更申請をしている。

また『西大寺鉄道52年史』によると「購入先(注:大阪岸本商店の事)にちょうど三呎(注:914mm)軌間の器材が揃っていたため購入を決めた」という記述があるので、大株主で役員も1人いた大阪岸本商店に何らかの理由で914mm軌間の機関車があり、これを進められたことで914mm軌間に決定したのではないかという説を安保彰夫は『RM LIBRARY89 西大寺鉄道』P7で述べている。

計画当初は岡山市側の終点を門田屋敷中納言にして三蟠鉄道や岡山電気軌道との乗り換えをしやすくする予定[6]だったが、実際は市内中心部に入らず、後楽園北側の蓬莱橋正面[注釈 3]に作られた後楽園駅が終着駅となった。これは観光客目当てではなく、目の前の旭川を渡る鉄道橋を建設できなかったためである。ただし後楽園を挟んで蓬莱橋・鶴見橋の2つの道路橋で旭川を渡れば徒歩10分ほどで岡山電気軌道番町線の停留所があり、市内中心部へ乗り継ぐことができた。

これに対し、岡山 - 西大寺間に存在するもう一つの大河である百間川(旭川放水路)の渡河については橋梁を架設せず、堤防に切り通し(陸閘=りっこう)を設けて横断する大胆な形態を取っていた。河川を管理する内務省およびその後身である建設省はこのような河川の通水の障害となる構築物の設置には反対するのが通例であったが、百間川は本来旭川の治水事業の一環で築造された放水路であり、通常は水が流れていなかった[注釈 4]ために認められたものであった。もっとも、旭川が洪水等で百間川に緊急放水される際は両岸の陸閘にそれぞれ板を落とし込んで堤防を閉鎖し、列車は運休となった。陸閘の開閉作業は西大寺鉄道の職員が行っていた。

西大寺で毎年2月に開かれる奇祭「西大寺観音院会陽」の際には、保有車両全車を出動させて長大編成を組み、ピストン輸送を行った。

戦前の会陽輸送では、車両の屋根上にまで人が溢れるほどの混雑を呈したと伝えられ、実際に写真も残されている。あまりの荷重で先頭の蒸気機関車の力だけでは発進が容易でないことから、客車代わりに編成内に連結された気動車にもエンジン始動状態で運転士が乗り込み、発進時のみ機関車に協調してギアを繋いで補助していた。混雑の凄まじさがうかがえる。
補償問題

本鉄道の経営状態は戦後廃止に至るまで1度の例外を除いて黒字決算を維持しており、日本では史上唯一黒字での軽便鉄道の廃線となった。

これは、戦後は赤穂線開業を見越して、機関換装などの気動車の改造工事以外の設備投資をほぼ完全に抑止していたことが主因であり、その一方で補償金算出を前提に帳簿上の操作で黒字を意図的に出していたとも言われるが、当鉄道の場合、会陽の特別輸送による収入が莫大なものであったのは事実であり、これが黒字決算に大きく貢献していたことは否定できない。

戦前には国鉄線が競合線として建設されたことで既存私設鉄道線が廃線となる場合、その経営状況等に応じて国から所定の廃止補償金が支払われるのが通例であったが、戦後は国鉄が公社化してこの制度が無くなり、実際にも赤穂線相生 - 播州赤穂間の開業により営業廃止となった赤穂鉄道[注釈 5]の場合、会社が最終的に解散に追い込まれたにもかかわらず、補償金が一切支払われなかった。

赤穂線の全通に際しても、この赤穂鉄道のケースを前例として国鉄側は補償金の支払いを拒んだが、巨額の現金収入をもたらしてきた黒字路線を潰された両備バス側は当然猛反発し、路線廃止後も請願や運動を重ねて、1965年に国鉄線開業に伴う競合線廃止に係る補償申請[注釈 6]にこぎ着け、1966年にようやくのことで補償金を得た。この際、路線撤去費用等の残務処理経費2,355万円を含む1億9,804万円の申請に対し、4割に満たない7,329万1,091円が補償金として支払われており、諸経費を除く実質的な補償額は5千万円に満たなかったことが判る。

この後、高規格な国鉄線が地方鉄道線の競合線として建設され、これに伴い当該地方鉄道が廃止に追い込まれる事例は井原線井笠鉄道)、湖西線江若鉄道)、そして阿佐線土佐電気鉄道安芸線)と西日本に幾つか発生したが、これらは本鉄道の補償問題を教訓としてか、いずれも廃止線の用地を一部買収(用地買収を担当した日本鉄道建設公団は実際には必要のない用地を多数取得していた)するという形で実質的な補償金が支払われ、問題の解決が図られた。それゆえこの補償制度を利用する企業は以後1社も現れず、この制度自体も1987年4月1日国鉄分割民営化に伴い終了した。
年表

1906年(明治39年)8月 大戸復三郎、山口誠孝らが西大寺軽便鉄道創設委員会を組織[2]

1907年(明治40年)9月7日 西大寺電気軌道に対し軌道特許状下付(軌間1067mm、動力電気)[7]

1910年(明治43年)7月31日 西大寺軌道株式会社として設立[8][9]

1911年(明治44年)12月29日 観音(後の西大寺市) - 長岡(後の財田)間 (5.5km) が開業[8]。動力蒸気、軌間914mm。所要時間は24分で1日36回の運転

1912年(明治45年)1月28日 長岡 - 森下間 (4.6km) が開業[8]。所要時間は41分で1日48回の運転

1913年(大正2年)8月16日 鉄道免許状下付(西大寺町-九蟠村間)[10]

1914年(大正3年)

7月10日 観音駅を西大寺町駅に、松崎駅を広谷駅に、岩間駅を長利駅に、長岡駅を財田駅に、関駅を幡多駅に、二本松駅を藤原駅に改称届出


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:72 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef