西夏王朝
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この項目では、歴史上の国について説明しています。銀川市の区については「西夏区」をご覧ください。

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西夏
大夏

1038年 - 1227年

11世紀の西夏(赤)

公用語西夏語
首都興慶
皇帝
1038年 - 1048年李元昊

変遷
唐の節度使、宋の従属国から西夏へ1038年
モンゴル帝国チンギス・カンによって滅亡1227年

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西夏(せいか、西夏文字 [*phiow1-bjij2-lhjij-lhjij2]、1038年 - 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省寧夏回族自治区)に建国した王朝。国号は夏だが、中国最古の王朝などと区別するため、通例「西」の字を付して呼ぶ。首都は興慶(現在の銀川)。モンゴル帝国チンギス・カンによって滅ぼされた。


目次

1 歴史

1.1 起源と成立

1.2 建国初期から全盛期

1.3 衰退

1.4 夏国公

1.5 夏皇帝


2 脚注

3 関連項目


歴史
起源と成立

西夏の起源は初にまでさかのぼる事ができる。この時期、羌族の中でタングート族がその勢力を拡大していった。その中、拓跋赤辞(中国語版)は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れて慶州(現在の寧夏回族自治区内)に移住し平西公に封じられた。唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭(中国語版、英語版)が反乱平定に大きな功績を残し、それ以降、夏国公・定難軍節度使として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。

初、趙匡胤は藩鎮の軍事権の弱体化政策を推進したが、これが夏国公の不満を引き起こした。当初は宋朝に恭順であった平西公であるが、次第に対立の溝を深め、1032年李徳明の子である李元昊が夏国公の地位を継承すると、次第に宋の支配から離脱する行動を採るようになった。李元昊は唐朝から下賜された李姓を捨て、自ら嵬名氏を名乗り、即位翌年以降は宋の年号である明道を、父の諱を避けるために顕道と改元し、西夏独自の年号の使用を開始している。その後数年の内に宮殿を建設し、文武班制度を確立、兵制を整備するとともに、チベット・ビルマ語派タングート語を表記するための独自の文字である西夏文字を制定した。

即位の翌年からは、長年の宿敵である青唐のチベット系勢力青唐王国(1032年 - 1104年)を攻めて決定的な打撃を与え、さらに1036年には宋の支配下であった、河西地方西部粛州瓜州沙州に兵を進めて制圧した。またチベット系をさらに牽制するため、蘭州近郊へ兵を送った。そして1038年10月11日に皇帝を称し、国号を大夏として名実ともに建国するに至った。
建国初期から全盛期

西夏は建国後、と同盟しに対抗する政策を採用し、しばしば宋内に兵を進めている。この軍事対立は1044年の和議成立(慶暦の和約)まで続いた。宋との和議では宋が西夏の地位を承認すると共に西夏が宋に臣従する代償として莫大な歳幣を獲得した。しかし、同年に西夏と遼の間で武力衝突が発生すると、西夏は宋・遼と対等な地位を獲得するに至った。ただ、宋との和議成立後もたびたび局地的な戦闘が続き、宋は西夏との国境に軍隊を常駐させていた。

李元昊の死後、2歳にも満たない息子の李諒祚が即位し、その母である沒蔵氏による摂政が行われた。この時期遼による西夏攻撃が行われ、西夏は敗北、遼に臣従する立場となった。

1063年吐蕃の禹蔵花麻が西夏に帰属した。皇帝である李秉常の母である梁氏はこの時期宋に対する軍事行動に出るが失敗、国政は李秉常の元に帰属するようになった。しかし李秉常の死後に3歳の息子である李乾順が即位すると、梁氏は再び摂政を開始、宋や遼に対する軍事行動を起こしている。李乾順の親政が開始された後は遼や宋との和平政策へ転換し、軍事行動は年々減少、西夏の社会経済が発展していくこととなった。

1115年が成立すると遼に対し侵攻を開始した。1123年、遼天祚帝は敗戦により西夏に亡命、同時に金の使者も来朝し李乾順に対し遼帝の引渡しを求めた。李乾順は遼の復興は困難と判断し金の要求を受諾、これにより西夏は金に服属することとなった。そして金により北宋が滅ぼされると、西夏は機会に乗じ広大な領土を獲得することとなった。

李乾順の死後は息子の李仁孝が即位した。この時期西夏国内では地震と深刻な飢饉が発生し民心が乱れ、各地で農民蜂起が発生した。これに対し李仁孝は国内に各種改革を行い、社会経済の発展と、社会の安定に努めた。
衰退

李仁孝の死後は息子の李純祐が即位したが、この時期になると政治腐敗が進み、国勢は凋落の一途を辿っていた。その状況下の1206年、親族の李安全が帝位を簒奪し李純祐を殺害、それまで金に依存した外交政策を見直し、当時強大な勢力を誇ったモンゴル族に依存する政策を採用した。

李安全は金に対し十余年に及ぶ軍事行動を発動した。この軍事行動は金のみならず西夏の国力を疲弊させるものであり、また飢饉などで貧困が続いていた民衆の離反を招き、また政治腐敗のみならず、皇帝自らが酒色に溺れ朝政を省みない状況で国内は一層不安定なものとなっていた。またモンゴルに依拠した外交政策も、西夏の安全を保障するものでなく、1205年にはモンゴルは西夏侵攻を開始、1209年までに3次に亘る西夏出兵ですでに国力は限界に達した。


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