西域
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西域
中国語
中国語 西域

発音記号
標準中国語
漢語?音X?yu
ウェード式Hsi1-yu4
粤語
粤?sai1 wik6
中古音
中古音/sei ?w?k?/
上古音
鄭張[*s??l ??r??]

朝鮮語
ハングル??
漢字西域

発音記号
RR式seo-yeok
MR式s?y?k

西域(さいいき、せいいき[注釈 1]?音:x?yu , Western Regions)は、古来、中国人中国の西方にある国々を呼んだ総称である[1]。元々はタリム盆地諸国を指したが、拡張されてジュンガル盆地、中央アジア、イランインド、さらに地中海沿岸に至る西アジアをもいう。紀元前1世紀の西域諸国(タリム盆地)

古代中国において玉門関陽関が西の境界とされ[1]、それよりも西方の国々が記録に明確に現れたのは『史記』「大宛伝」が最初だが、ここには西域の語は見えない。『漢書』にいたって初めて西域の語が現れ、西方の国々のことを記した「西域伝」が作られる[1]。この西域伝では西域の地理について「南北に大山あり、中央に川あり、東西六千余里、南北千余里」と述べているので、タリム盆地を指していることが明らかである[1]。しかし、『漢書』西域伝にはタリム盆地の国々ばかりでなく、トゥーラーンアフガニスタンパキスタンイランなどの国々についても記されている[1]。その後、中国歴代の正史のいくつかは西域伝を載せているが、その地理的範囲は全て『漢書』と同じである。
地理

西域とは概ね中央アジアを指し、時にはインド亜大陸、西アジアまでを指すこともある。西域の国々はさらにパミール高原をはさんで東西に分けることができる。まず、新疆ウイグル自治区には、トルファン盆地伊吾高昌車師前部など)、ジュンガル盆地(車師後部など)、タリム盆地焉耆亀茲于?莎車疏勒楼蘭など)、イリ地域(烏孫)の国々があり[1]中央アジアでは、ソグディアナトハリスタン大宛康居大月氏大夏昭武九姓)の国々がある。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ケリヤニヤホータン
(于?)カルギリク且末ヤルカンド
(莎車)イェンギサール若羌カシュガル陽関巴楚ロプノール敦煌玉門関楼蘭アクス烏什亀茲コルラクチャ輪台焉耆高昌ハミトルファンアルマトイウルムチグルジャ阿拉山口カラマイチョチェクアルタイスイアブ鎖陽城アルタイ山脈天山山脈崑崙山脈パミール高原アルチン山脈タクラマカン砂漠クムタグ砂漠グルバンテュンギュト砂漠 西域地図(東トルキスタン/新疆ウイグル自治区
歴史ストラボンが伝える張騫以前の中央アジアの諸族
張騫以前の西域

まず、西域はパミール高原をはさんで東西に分けることができ、その歴史もその東西で大きく異なってくる。紀元前6世紀以降、西部すなわち中央アジア地域にはアケメネス朝ペルシアの属州であるマルグ(マルギアナ)、ソグディアナバクトリアがあった。アケメネス朝は西アジア一帯からエジプト小アジア、中央アジアをもその版図に入れていたが、その征服活動に大きく貢献したのはキュロス2世(在位:前559年 - 前529年)とダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)といえる。しかし、その2君ですらパミール越えをしたことがなく、そのままマケドニアアレクサンドロス3世前336年 - 前323年)に侵攻され、滅ぼされた。アレクサンドロスはアケメネス朝の版図をそのまま受け継ぎ、大帝国を築いたが、彼もまたヤクサルテス川を越えただけで、それ以東には踏み入れなかった。その後、マルギアナとソグディアナとバクトリアにはアレクサンドロスの後継国家が建てられたが、いずれもパミール越えをしたという記録が残っていない。

一方、パミールの東側、すなわちタリム盆地の国々は漢代に西域36国などと呼ばれたが[1]張騫が訪れる以前の様子は山海経などに現れる程度で不鮮明となっている。史記によれば匈奴がタリム盆地の諸国を尽く征服し、西辺日逐王が僮僕都尉を置いて焉耆国・危須国・尉犁国の間に駐屯し、西域諸国に賦税を課していた事が判る。主要国である楼蘭・焉耆・姑師亀茲于?姑墨莎車疏勒などはそれ以前から存在したと思われるが、それ以前のタリム盆地の歴史は謎のままである。また、匈奴の支配を受ける前のタリム盆地では月氏が支配しており、中国史書が伝える「月氏は敦煌祁連の間に住んでいた」すなわち、月氏が河西回廊(現在の甘粛省)のみにいたのではなく、新疆一帯にその領域を持っていたとする説もある[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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