凡例西園寺実兼
時代鎌倉時代後期
生誕建長元年(1249年)
死没元亨2年9月10日(1322年10月21日)
改名実兼→悦空(法名)
別名西園寺入道前相国、北山入道相国
官位従一位、太政大臣
主君後嵯峨上皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇
氏族西園寺家
父母父:西園寺公相
母:八十前(中原師朝
西園寺 実兼(さいおんじ さねかね/さねかぬ)は、鎌倉時代後期の公卿。太政大臣・西園寺公相の長男。官位は従一位・太政大臣。西園寺入道前相国、又は北山入道相国と号す。 文永6年(1269年)、祖父西園寺実氏の家督を継ぎ関東申次に就く。大覚寺統・持明院統による皇位継承問題などで鎌倉幕府と折衝にあたる。正応4年(1291年)、子・公衡に関東申次を譲ったが、公衡の死去により再度就く。当初は持明院統に近い立場に立って伏見天皇の践祚に尽力したために大覚寺統と激しく対立したが、京極為兼との確執から次第に大覚寺統寄りに転換していった。元亨2年(1322年)に薨去。また、続拾遺和歌集・玉葉和歌集・続千載和歌集などの勅撰集に入集するなど有名な歌人でもあり、また琵琶の名手でもあった。なお後深草院二条の「とはずがたり」に登場する恋人「雪の曙」は実兼であるとされる。兼好法師『徒然草』の第231段に「北山太政入道殿」として登場する。 以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 実兼の生母は大外記中原師朝の娘・八十前であるが、八十前の生母は琵琶西流
人物像
経歴
建長7年(1255年)1月5日、叙爵。
建長8年(1256年)3月6日、大宮院御給により従五位上。同月21日、侍従。
正嘉元年(1257年)閏3月27日、左少将。
正嘉2年(1258年)5月5日、大宮院御給により正五位下。同月13日には讃岐介を兼ね、翌14日、左中将。
正嘉3年(1259年)3月8日、父の譲りにより従四位上。
正元2年(1260年)1月5日、東二条院の御給により正四位下。
文応2年(1261年)1月5日、従三位。同月7日、中将は元の如し。
弘長2年(1262年)3月29日、父の譲りにより正三位。
文永3年(1266年)10月24日、権中納言。同年11月26日、帯剣を許される。
文永4年(1267年)1月5日、大宮院の御給により従二位。同年10月12日、父・公相の喪に服す。
文永5年(1268年)1月5日、大宮院の御給により正二位。
文永6年(1269年)6月7日、祖父・実氏の喪に服す。10月9日、出仕するよう宣下があり、12月7日には左衛門督を兼ねた。
文永8年(1271年)3月27日、権大納言。
文永10年(1273年)2月14日、養祖父・徳大寺実基が薨去したため喪に服す。
建治元年(1275年)11月、春宮大夫を兼ねる。
弘安10年(1287年)10月21日、春宮践祚(伏見天皇)により大夫を止める。
正応元年(1288年)10月17日、大納言。11月8日、右近衛大将を兼ね、同月25日には従一位。同年12月2日、右馬寮御監となる。
正応2年(1289年)10月1日、任大臣の仰せがあり18日には内大臣。
正応3年(1290年)1月26日、右大将を辞した。同年4月25日には上表して内大臣を辞した。
正応4年(1291年)12月25日、太政大臣。
正応5年(1292年)6月24日、随身兵仗を給わる。同年12月29日、太政大臣を辞した。
正安元年(1299年)6月11日、牛車の宣旨を受ける。同月24日、出家し法名を悦空とする。
元亨2年(1322年)9月10日、薨去。
母系を通しての琵琶の伝授
琵琶秘曲伝授の師として 伏見宮楽書集成一』や『文机談』に見えている。弘安9年(1286年)6月16日には実兼が当時春宮であった煕仁親王(後の伏見天皇)に楊真操の秘曲伝授をおこない、同月22日には献譜したことが後深草院御記にあり[3]、伏見院御記にも同様の記録がある[4]。その他にも実兼は琵琶秘曲伝授に多く関わっていることが「故入道太政大臣殿御記」に記されていて、文永9年に藤原孝頼から伝授を受けた記録、正応4年に伏見天皇に上原流泉、石上流泉を授けた記録、同じく正応4年に鷹司冬平に啄木を授けた記録、徳治2年に藤原孝章(孝頼の孫)に啄木を授けた記録、などが残されている[5]。藤原孝頼は地下の楽人であったが、死の間際に琵琶の秘曲を伝授してくれたことを実兼は感謝し、孝頼の孫にその秘曲を伝授して家業の興隆に努めさせた他、孝頼の姪にあたる孝子を側室に迎えて兼季を儲けている[6]。
一方、実兼だけでなく息男の公顕は延慶2年(1309年)10月23日に後伏見院に楊真操の秘曲伝授を行っている[7]。前権大納言兼右大将であった公顕が従一位に叙せられた理由は、この秘曲伝授にあったと推察できる[8]。正和2年(1313年)にも後伏見院は公顕から秘曲を伝授されている[9]。元亨2年(1322年)8月12日に後伏見院は実兼から伝授を受けるつもりであったが、実兼が所労危急の状態なので藤原孝重(孝章の孫)から啄木の伝授をうけることになったという記録もある[4]。