西園寺公一
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日本政治家西園寺 公一さいおんじ きんかず
1948年
生年月日 (1906-11-01) 1906年11月1日
出生地 日本神奈川県
没年月日 (1993-04-22) 1993年4月22日(86歳没)
出身校東京帝国大学大学院
所属政党無所属
配偶者西園寺雪江
子女西園寺一晃(長男)
親族西園寺公望(祖父)
西園寺八郎(父)
参議院議員
選挙区全国区
当選回数1回
在任期間1947年5月20日 - 1953年
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西園寺 公一(さいおんじ きんかず、1906年明治39年)11月1日 - 1993年平成5年)4月22日)は、日本政治家実業家参議院議員(1期)、外務省嘱託職員、太平洋問題調査会理事などを歴任した。ゾルゲ事件連座して逮捕、有罪となり、公爵家廃嫡となった。
生涯
生い立ち

1906年(明治39年)11月1日、西園寺家嫡男として神奈川県に誕生した。祖父は元老西園寺公望、父は公望の婿養子となった西園寺八郎(実父は旧長州藩主の毛利元徳)で、母は公望の長女・新子である。
学生時代

学習院初等科を経て、1924年(大正13年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、朱牟田夏雄東京大学名誉教授)、春山泰雄サッカー日本代表)などがいた。

その後、イギリスオックスフォード大学留学し、1930年(昭和5年)に卒業。ここでマルクス主義の洗礼を受ける。
帰国後

1931年(昭和6年)に日本へ帰国。父・八郎からコネで宮内省入りを勧められたが、「マルクス主義者である」として頑として拒絶。東京帝国大学大学院に在学中、外務省の試験を受けたが、不合格となる。

結果詳細を知らされなかったにもかかわらず「英語は素晴らしくよくできたが、日本式の答案にはまるで不慣れ」と弁明したが、これを真に受けた近衛文麿は「折角きてくれるというのに、なんてもったいないことをするんだろう。」と嘆いた[1]
外務省嘱託尾崎秀実

その後、近衛のコネを使い外務省嘱託職員を務めていたが、重要な案件に関係できなかったことを不服に思い辞職し、1936年(昭和11年)にはグラフ雑誌『グラフィック』の社長に就任した。

同年7月、アメリカ合衆国カリフォルニアヨセミテ太平洋問題調査会の第6回大会が開かれることとなり、オックスフォード時代の顔見知りで内閣書記官を務めていた牛場友彦のコネにより日本代表団の書記として渡米。このとき、牛場から引き合わされて公一と同じ船室に入ったのが牛場の第一高等学校時代の同級生で、ゾルゲ事件で同じく逮捕され有罪となった尾崎秀実だった。なお尾崎とは帰路も同室になった[2]

なおこの頃、中国の秘密結社についても研究しており、また中華民国における共産主義運動に関心を持っていた。1937年(昭和12年)に第1次近衛内閣が成立すると、近衛のブレーン「朝飯会」の一員として、尾崎らとともに軍部の台頭に反対し、対英米和平外交を軸に政治活動を展開した。また日中戦争下で「汪兆銘工作」にも参画。「自立した新政権」の樹立を目指したが、結果としては軍部の意向が強く反映された政権となった。

1940年(昭和15年)9月には再び外務省嘱託職員となり、この時期、松岡洋右外相に同行してヨーロッパを訪問。ヨシフ・スターリンアドルフ・ヒトラーベニート・ムッソリーニとも、外交団の一員として同席している。
近衛内閣嘱託リヒャルト・ゾルゲ

1941年(昭和16年)7月には、内閣嘱託となる。近衛首相より、「日米交渉について陸海軍の意見調整を図る」という任務が与えられたが、その裏ではソ連スパイリヒャルト・ゾルゲの協力者である尾崎を通じ、ソ連に情報を与えていた。

なお同年には、新橋芸者屋「河辰中」の芸妓だった雪江と結婚している。
ゾルゲ事件で逮捕

同年10月に、風見章が主催する昼食会の席上で、尾崎の逮捕を知る(ゾルゲ事件)。尾崎とは共に近衛内閣のブレーンとして様々な情報交換を行っていた上に、それ以外にも立場を利用して得た国家機密をソ連に流していたことから逮捕された。その後の裁判で禁錮1年6月、執行猶予2年の有罪判決を受けた[3]

死刑の尾崎に比べ軽い刑とされたが、有罪判決を受けたのち西園寺家の嫡男としての爵位継承権を剥奪、従五位返上を命じられる[4]。さらに1946年(昭和21年)に父・八郎が死去したあとの家督を弟の不二男に譲るとともに、父からの相続を放棄した。

なお、近衛首相も事件への関係を当然疑われたが、ゾルゲと尾崎、西園寺らの逮捕と時を同じくした内閣総辞職、間もなく起こった英米蘭との開戦(太平洋戦争)、そして政府と軍の意向による追及阻止により、ゾルゲ事件における関係は不問とされてしまった。

また西園寺は、執行猶予中であることとと年齢などにより徴兵を免れ、奥日光で釣りをするなどして過ごし、『釣魚迷』という著書も残している[3]
第二次世界大戦後

日本が第二次世界大戦に敗れて連合国軍の占領下にあった時期、執行猶予が解けた。その後はGHQの監視の下、実家の資産を投じて『グラフィック』誌の仲間と共に『世界画報』を創刊。また、新設プロ野球球団である「セネタース」(現在の北海道日本ハムファイターズ)のオーナーを短期間務めるなど、自由な生活を享受した。

1947年(昭和22年)には、 戦前のスパイ活動の有罪があったが、第1回参議院議員通常選挙無所属で出馬して当選。しかし肝臓ジストマに侵されていた公一は、議会への欠席が多く何もできず、2回目の参院選には落選。1954年(昭和29年)には京都市長選挙に出馬して落選する。

1955年(昭和30年)には、冷戦下でソ連や東ドイツポーランドなどの東側諸国社会主義国)政府の主導で設立された「世界平和評議会」に、日本共産党系の日本平和委員会から「日本代表」として送られた。


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