西南聯合大学(せいなんれんごうだいがく)は、日中戦争中の1938年から1946年まで雲南省昆明にあった中華民国の国立大学。北京(北平)にあった国立北京大学・国立清華大学および天津にあった私立南開大学の3つの大学の疎開先として設立された。 1937年7月に盧溝橋事件が発生すると、蒋介石は廬山で徹底抗戦を宣言した。同年8月28日に長沙臨時大学籌備委員会が発足し、北京大学・清華大学・南開大学の3校は湖南省長沙の岳麓山に疎開することになった[1][2]。長沙臨時大学は北京大学校長の蒋夢麟・清華大学校長の梅貽g・南開大学校長の張伯苓を常務委員とし、11月から授業が始まった。学生数は1496人だった[1]。 1937年末になると上海や首都南京が陥落し、長沙も危険になったため、大学は1学期のみで授業を停止し、1938年2月から4月までかけて昆明に移転した。昆明への移動は困難であり、4月2日の段階で学生は993人になっていた[1]。西南聯合大学は5月に授業を開始した。 1940年になると昆明も日本軍の空襲にさらされるようになったが、戦争終了まで昆明に踏みとどまった。 1941年11月には師範学院を設立した[2]。 西南聯合大学には理・工・文・法商・師範の5つの学院と26の学部があった[1]。 戦後、3校は徐々に本来の場所に復校したが、西南聯合大学での授業も継続した。1945年末、国共内戦に反対する学生運動が軍隊と衝突し、流血事件に発展した(中国語版記事
目次
1 歴史
2 著名な教員
3 著名な学生
4 脚注
5 外部リンク
歴史
1946年5月4日、開校からちょうど8年後に西南聯合大学は終了を宣言した。北京大学に644人、清華大学に932人、南開大学に65人が移った[2]。師範学院はそのまま昆明に残って国立昆明師範学院となり、現在も雲南師範大学の名前で存続している。 ウィキメディア・コモンズには、西南聯合大学
著名な教員
朱自清
馮友蘭
金岳霖
聞一多
陳寅恪
陳省身
王力 (言語学者)
呉ヨ
費孝通
ウィリアム・エンプソン
著名な学生
楊振寧
李政道
王浩 (数学家)
脚注^ a b c d ⇒『西南聯大時期(1937-1946)』 國立清華大學數位校史館。 ⇒http://archives.lib.nthu.edu.tw/history/history03.html。
^ a b c ⇒『校史大事記-西南聯大時期』 國立清華大學數位校史館。 ⇒http://archives.lib.nthu.edu.tw/history/timeline/timeline02.html。
^ ?一多 『 ⇒“一二・一”??始末?』 国学网。
外部リンク
⇒『西南?大博物?』 云南?范大学。 ⇒http://bwg.ynnu.edu.cn/。
⇒『西南?合大学?期(1937-1946)』 北京大学校史?。 ⇒http://www.xsg.pku.edu.cn/bnbd/xnld/。
更新日時:2019年3月12日(火)12:11
取得日時:2019/03/13 23:10