西住小次郎
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西住 小次郎
にしずみ こじろう
陸軍歩兵中尉・戦車第1連隊附時代の西住小次郎
渾名「軍神西住戦車長」「小ジュ」
「背高ノッポ」「サトガラ」「宣長」
「トウボシ柿」「デロ入」ほか多数
生誕1914年1月13日
日本熊本県
死没 (1938-05-17) 1938年5月17日(24歳没)
中華民国徐州
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1934年 - 1938年
最終階級陸軍歩兵大尉
墓所大谷本廟(分骨)
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西住 小次郎(にしずみ こじろう、1914年大正3年〉1月13日 - 1938年昭和13年〉5月17日)は、大日本帝国陸軍軍人陸士46期。最終階級陸軍歩兵大尉勲五等功四級[1]熊本県上益城郡甲佐町仁田子出身。

日中戦争支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍。戦死後、軍部から公式に「軍神」として最初に指定された軍人として知られる。
来歴・人物西住の生家

1914年(大正3年)、父三作・母千代の間に、三男四女の二男として生まれた。父三作は退役軍人であり、明治期に陸軍教導団を経て台湾の抗日勢力の鎮圧、日露戦争に参加、曹長から中尉(予備役後大尉に昇進)まで上り詰めた人物だった。また祖父の深九郎は西南戦争に薩軍熊本隊の一員として参加、その後戦友のつてで一番小隊長だった佐々友房の設立した熊本国権党員となり、三作とともに地元の公共事業に尽力していた[2]。こうした環境は幼少期の小次郎に大きな影響を与えており、早くから軍人への道を志していた。

1920年(大正9年)、甲佐尋常小学校に入学。当初胃の病気で体が弱く、1・2年ともに一か月程欠席していたが、成績は優秀であり[3]、1・2年生では二番、3年から6年生は首席だったという。

1926年(大正15年)4月、旧制御船中学校(現:熊本県立御船高等学校)に入学。成績は1年で18番、2年で5番、3年が3番、4年の時は陸軍士官学校入学を優先したため7番だった。また、在学中陸軍幼年学校への入学も希望していたが、視力が弱いため不合格となった[4]。小学校の頃の西住は活発な印象だったが、中学の頃は温和で寡黙な言わば文学少年といった印象であり、当たり前のことを当たり前に淡々と取り組むタイプ、クラスメイトの中ではどちらかと言えば記憶に残らないような存在だった[5]

4月上旬、陸士に合格。この時、御船中学からは他に赤星繁、西田義晴、甲斐勝衛、西住恵(のち胸膜炎のため退学)、高田増実[注釈 1]の5人が同じく陸士に、岡田茂正が海軍機関学校に同時に合格している。在学中は目黒に住む叔父(父の義妹の夫)の陸軍獣医少佐、斉藤清左衛門宅に下宿した。陸士では第1中隊第3区隊(区隊長・岩国泰彦中尉)の配属となる。在学中、中学以来一蓮托生であった無二の親友が病気により失意のうちに退学、さらにルームメイトと実の父を相次いで失うという衝撃的な出来事が相次ぎ、その後の彼の人生に大きな影響を与えた。

1934年(昭和9年)6月の卒業(第46期、兵科歩兵)後、見習士官として宇都宮歩兵第59連隊附。同年12月には、静岡歩兵第34連隊陸軍歩兵少尉として満州事変に従軍。これにおいて飛行機とともに戦車の重要性を感じた西住は、内地帰還後、自ら戦車兵への転科を要望した。1936年(昭和11年)1月から習志野戦車第2連隊練習部で戦車兵としての教育を受けた後、同年8月から久留米戦車第1連隊附に転任して陸軍歩兵中尉任官。八九式中戦車

翌年の1937年(昭和12年)9月3日、第二次上海事変において戦車第5大隊・第2中隊(長・高橋清伍大尉)配下の戦車小隊長として上海呉淞に上陸、急遽第11師団の歩兵第10旅団を基幹とする天谷支隊歩兵第22連隊に配属された。翌日、同済大学校舎内に進入し敵陣地がある大金家村東方の橋梁を偵察。9月5日、歩兵第22連隊、68連隊を支援し宝山城守備隊(第98師第292旅第583団第3営、長:姚子青(中国語版)中校)と交戦。また、7日には陳家宅付近の戦闘に参加した。

以降、歩兵支援という重要任務で大場鎮の戦い、南翔攻城戦と激戦を戦い抜き、うち5回も重傷を負いながらも、一回も前線を退くことなく、実に計34回の戦闘に参加して武勲を挙げた。また、高橋大尉が負傷した際には、中隊長代理として第2中隊の指揮を務めた。

徐州会戦中の1938年(昭和13年)5月17日午後6時半ごろ、宿県南方の黄大庄付近に於いて、高粱畑をかき分け前進していた一行は、戦車の進路前方にクリークを発見した。西住は、戦車の渡渉可能な場所を探しに下車し単身斥候を行った。そして指揮官旗を水面に突き刺して地点を確認し、高橋中隊長に報告に赴こうとした直後、背後から対岸の中国兵に狙撃された[注釈 2]。銃弾は西住の右太腿と懐中時計を貫通し左大腿部の動脈を切断した。

すぐに部下である城秀雄伍長と砲手であり当番兵の高松高雄上等兵が戦車から飛び出して西住を担ぎ込み、また別の戦車2両が前面に出てクリークと西住の間を遮り盾となった。西住は出血多量のために意識朦朧となりながらも、高松上等兵に高橋中隊長へクリークの渡渉可能地点を伝達するよう命じた。部下たちによって自身の戦車の中へと戻された西住は、衛生隊軍医の服部(階級不明)から応急措置を受け止血したが、すでに手遅れであった。自らの最期を悟った西住は、高松ら部下と高橋中隊長、そして内地の家族への別れの言葉を告げ、午後7時30分ごろ、「天皇陛下万歳」の言葉を最後に息を引き取った[7]。享年24。死後、陸軍歩兵大尉に特進した。
軍神・西住小次郎西住とその搭乗車を写した雑誌記事

死後、西住の上官だった細見惟雄大佐は、11月、千葉陸軍戦車学校で行われた講演会で西住について触れた。更に12月17日、陸軍省記者倶楽部詰めの記者を陸軍戦車学校に招き、戦車の演習を見せるとともに、細見大佐が「故西住大尉に就て」と題した講演を行った。細見大佐は、「新聞紙のもつ偉大なる力に依つて、この西住大尉により顕現された軍人精神を全国民に知らしめ、国民精神総動員のために裨益するところあらしめたい」と要請したという[8]。この翌日、まず東京朝日新聞が「昭和の軍神・西住大尉 陸軍全学校教材を飾る偉勲鉄牛部隊の若武者」との見出しを付け、その生涯と戦績について報じた。12月23日に西住の乗車であった戦車が公開され、26日にラジオで細見大佐が西住についてのラジオ講演を行うと報道は過熱化、マスコミは西住のことを一斉に書き立て、軍神と称賛した。背景として、南京、漢口を落としたにも拘らず続く日中戦争で厭戦感が漂い始めた国民に活を入れる材料として使われたとの見方がある[8]

翌年3月11日、支那事変戦死者第八回論功行賞において西住は「申し分ない典型的武人」「忠烈鬼神を泣かしむる鉄牛隊長」として陸軍報道部によって顕彰され、殊勲甲優賞、功四級金鵄勲章及び勲五等旭日章を授与された。

戦前日本において、日露戦争時の広瀬武夫中佐橘周太中佐などが既に「軍神」の尊称を受け著名な存在になっていたものの、軍部によって公式に「軍神」として指定されたのは西住が最初であった。以降、西住は「軍神西住戦車長」などと謳われ、広く国民に知られることとなる。

また、西住が乗っていた1,300発にも及ぶ被弾痕の残る八九式中戦車は靖国神社で展示され、大きな話題となった。その他にも、西住をテーマにした小説や戦時歌謡(軍歌)、子供向けの伝記が数多く作られている。特に、軍部の依頼によって書かれた菊池寛による小説『西住戦車長伝』は1939年(昭和14年)、東京日日新聞大阪毎日新聞に連載されると好評を博し、1940年(昭和15年)には松竹により映画化。


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