西三河地方のデータ
国日本
地方中部地方、東海地方
面積1,657.97km2
総人口1,570,040人
(2009年4月1日)
豊田市(中核市)岡崎市(中核市)
西三河(にしみかわ)は、愛知県の中部を指す。現在の愛知県政においては9市(豊田市、岡崎市、碧南市、刈谷市、安城市、西尾市、知立市、高浜市、みよし市)と1町(額田郡幸田町)を範囲とする[1]。
原義は令制国の三河国の西半分で、矢作川流域の碧海郡、幡豆郡、額田郡、加茂郡から成る地方である。 易林本の『節用集』によると、参河(三河)国は「山河多く、水の便が悪く、五穀不熟国で乏しく、下の小国」とある。三河は、現在は愛知県西部となっている尾張国と比べて山がちで、しかも乾燥した痩せた台地が広がっていた。三河のうち矢作川流域については明治時代の明治用水の開削まで農業生産能力が低く、尾張のほか近隣の美濃国(岐阜県南部)や伊勢国(三重県東部)などに後れを取っていた。 中世は各地に土豪が乱立し不安定な状態が続いたが、質実剛健な風土を育んだ面もある。足利一族(細川氏や仁木氏、吉良氏、一色氏、今川氏)と縁が深い地域の一方で、土豪層からは室町・戦国・江戸期の徳川氏(松平氏)が起こり、天下人の徳川家康を輩出した。近現代ではトヨタグループの発祥地となった。 愛知県内でも特に西三河は浄土真宗など浄土系仏教の信者が多く、戦国時代には全国有数の規模の一向一揆(三河一向一揆)を引き起こしている。 成務朝に三河国造 古代の西三河は、現在の範囲よりもさらに広かった。三河湾3島(日間賀島、篠島、佐久島)は幡豆郡に所属していた。現在の長野県根羽村、後世では東三河に位置付けられる設楽町の名倉・津具、現在の豊根村全域、現在は豊田市の一部である旧稲武町は、加茂郡に所属していた。額田郡域は、現在の岡崎市の過半と幸田町の東半分に留まる。西三河の中央の平坦地は、碧海郡域。現在は、幸田町の属する額田郡以外は全て市域となり消滅している。 古代から平安時代まで、矢作川西岸の旧碧海郡が西三河の中央を占め、多数の集落があり人口も最大であった。旧碧海郡は、現在の西三河に存在する9市のうち、みよし市を除く8市に跨っていた。現在の油ヶ淵辺りは三河湾の入り江であり、湊として機能していた。 鎌倉時代になって、鎌倉幕府の有力武士の足利義氏が承久の乱鎮圧に功績をあげて三河守護になってから、足利氏とその一族が三河に土着して所領を持つようになった。特に額田郡の細川氏と仁木氏、幡豆郡の今川氏や吉良氏、一色氏は、足利一族として有名である。建武2年(1335年)の矢作川の戦いでは、後醍醐天皇軍に対するため、足利尊氏の下に三河の足利一族が総結集した。室町幕府成立後も、三河は征夷大将軍の足利一門にとって重要拠点であり続け、足利氏の一族が三河守護を歴任した。 応仁の乱後、戦国時代に突入すると、松平郷から起こった松平氏が、岩津を本拠として西三河一帯に勢力を拡張した。その中から、安祥城を本拠とした安城松平家(徳川本家)が、今川氏の攻撃などで衰退した岩津松平家に代わって松平氏宗家として台頭。松平清康の代に、大草松平家を破って安城・岡崎を兼領し、一時は東三河・三河山間部を従え、三河国全域を統一する。森山崩れにより松平氏の勢力は瓦解し、尾張の織田氏が安祥城を占拠。その後、三河は駿河の今川氏の属領となる。 清康の孫の松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いでの今川義元の敗死以後、岡崎城を奪還し、今川氏からの独立を宣言。
自然地理
山
美濃三河高原 - 三河山地 - 幡豆山地
猿投山
平野
岡崎平野
川
矢作川
歴史
古代
平安時代まで
鎌倉時代から室町時代まで
戦国時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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