西ヶ原
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西ケ原
町丁
西ヶ原一里塚
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度44分45秒 東経139度44分32秒 / 北緯35.745903度 東経139.742303度 / 35.745903; 139.742303
座標位置:西ケ原駅付近
日本
都道府県 東京
特別区 北区
地区滝野川地区

人口情報(2023年(令和5年)1月1日現在[1]
 人口18,180 人
 世帯数10,097 世帯

面積[2]
 0.982162957 km²
人口密度18510.17 人/km²
郵便番号114-0024[3]
市外局番03(東京MA[4]
ナンバープレート練馬
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西ケ原(にしがはら)は、東京都北区町名。現行行政地名は西ケ原一丁目から西ケ原四丁目。住居表示実施地域。
地理

東京都北区の南西端部の武蔵野台地に位置し、豊島区との区境を成すかつての山の手の住宅街である。城北地区屈指の良好な住宅地として知られる。地区の北を王子滝野川および豊島区西巣鴨、東を栄町および上中里、南を中里、西を豊島区駒込および巣鴨と接する。地区の中央を南北に本郷通りが縦走する。
地価

住宅地の地価は、2023年令和5年)1月1日公示地価によれば、西ケ原3-40-12の地点で55万円/m2となっている[5]
歴史

縄文時代前期(約5500年前)当地周辺の台地上に大規模な集落が現れた。海岸線から貝を採取したり、魚をとったと推測される。中期後半頃(約4200年前)から西ヶ原貝塚が形成されている。弥生時代には大規模な環濠集落が造られた。古墳時代後期には飛鳥山に古墳群が形成された。

古代には東海道が通っており、675年頃に現・滝野川公園辺りに武蔵国豊島郡郡衙が造成され始め、715年頃大規模に改造された。平安時代の末期ごろから平塚郷の一部として豊島氏の支配下となり、居城である平塚城が築かれたと伝えられる。七社神社から平塚神社の周辺で城に関連する遺構が多数発見されたものの、城郭の実態は明らかになっていない。

江戸時代日本橋から日光まで将軍が日光東照宮に参拝するために整備された日光御成道(現・本郷通り)の一里塚が設置されていた[6]1641年に将軍の鷹狩の拠点として御殿が現・滝野川公園辺り、のちに御殿山と呼ばれる場所に設置されたと考えられ、同年に徳川家光が鷹狩りに訪れている。1716年徳川吉宗が鷹場を再置し度々訪れている。日光御門主下屋鋪、西ヶ原牡丹屋敷、西ヶ原村と上中里村に跨って御用屋敷があった他、武家屋敷と農村が混在し、江戸御府内近在の一定の市街化が進んだ地域であった。

1868年明治元年)武蔵知県事山田政則管轄区域から東京府に編入される。1869年(明治2年)、番組制では東京地方三番組に属した。政治の中心であった皇居周辺や経済の中心であった日本橋へのアクセスの便がよかったことから、陸奥宗光渋沢栄一をはじめ、元勲華族実業家文化人らが居を構えた。これらの邸宅の一部は庭園として残されている。

明治から昭和にかけて林業蚕業農業研究所学校が存在した。農事試験場跡の石碑には「農業技術研究発祥之地」と刻まれている。かつて存在した二つの学校はのちにそれぞれ現・東京大学農学部と現・東京農工大学となった。1911年(明治44年)王子電気軌道大塚線(大塚 - 飛鳥山上)が、1923年大正12年)東京市電飛鳥山線(駒込駅前 - 飛鳥山)が開通した。市電の工事にあたって渋沢栄一、野木滝野川町長らによる一里塚の保存運動があり、線路は一里塚を避けるように敷かれた。滝野川区役所は西ヶ原町(現・北区立滝野川会館の地)にあった。古石神井川のかつての河道を流れていた谷田川は昭和に入って暗渠化され、暗渠上に霜降銀座等の商店街が形成された。1931年(昭和6年)に国立印刷局滝野川工場(現・東京工場)が建設された。1944年(昭和19年)に東京外国語大学(当時は東京外事専門学校)が一ツ橋から海軍下瀬火薬製造所跡地に移転し、2000年平成12年)まで西ヶ原キャンパスがあった。1991年(平成3年)に南北線が開通し西ケ原駅が設置された。
地名の由来

地域の中心であり平塚神社のある上中里中里に対する西にある原の意味だと思われる。中世小田原北条氏の家臣江戸衆の平塚藤右衛門の所領に「二十貫文 江戸平塚内西原」とある。
町名の変遷

現在の西ケ原の始祖は1889年明治22年)の町村制施行時点における北豊島郡滝野川村(1913年に町制施行し滝野川町へ)大字西ヶ原である。滝野川町は1932年(昭和7年)に東京市へ編入され滝野川区へ移行し、大字西ヶ原は西ヶ原町となる。1947年(昭和22年)に滝野川区は王子区と合併し北区が成立。その後1953年(昭和28年)に町名整理により西ヶ原町の一部が西ケ原一丁目?四丁目となった。

1965年、この西ケ原一丁目?四丁目をそのまま継承する形で住居表示を施行、1976年には住居表示未実施であった西ヶ原町の残部にも住居表示が行われ一丁目へ編入(一部は中里二丁目へ編入)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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