首都なし
西ベルリン市長
1948年12月7日 - 1953年9月29日エルンスト・ロイター
西ベルリン(にしベルリン、ドイツ語: West-Berlin, 英語: West Berlin, フランス語: Berlin-Ouest)は、第二次世界大戦終戦後1949年から1990年まで、アメリカ・イギリス・フランスが占領したベルリン西部の地域。周囲をドイツ民主共和国(以下:東ドイツ)の領土(ソ連が占領し、後に東ドイツの首都となった東ベルリンも含む)に囲まれていた。
このことから、西側自由主義陣営からは「赤い海」(共産主義諸国)に浮かぶ自由の島と評された。 西ベルリンでは、外交と通貨行政をドイツ連邦共和国(以下:西ドイツ)政府が代行するという協定を結んでいたため、西ドイツの通貨(ドイツマルク)が用いられ、西ドイツ国籍の人が多く居住し、担当する市長や市議会議員も西ドイツの政党に所属していたことから、実質的には西ドイツの飛び地であった。とはいえ、米英仏の旧連合国による占領地域であり、あくまでも公式には西ドイツ領ではなく、西ドイツと西ベルリンでは以下のような違いがあった。
概要
西ベルリンからは西ドイツの連邦議会の議員を人口に応じて選出しており、議会での発言権および委員会の投票権を有していたが、首相任命権・予算審議権など連邦に関する議案の投票権は与えられていなかった。
西ベルリン住民の身分証明書及び旅券は西ドイツのものとデザインは類似していたが、西ドイツの国名や国章がない点で異なっていただけでなく、発行はベルリン市であり、国籍は西ベルリン市民と表記されていた。
西ベルリンはアメリカ・イギリス・フランスが共同で統治する地域であるとベルリン協定
西ベルリンを出入りする航空機の乗り入れは、占領国の航空会社であるイギリスのダンエアー(後にブリティッシュ・エアウェイズに吸収)、アメリカのパンアメリカン航空とフランスのエールフランスに限られ、西ドイツのフラッグキャリアであるルフトハンザドイツ航空は乗り入れていなかった。
西ベルリンにソ連の統治は及んでいなかったものの、協定によりシュパンダウ刑務所の警備を4か月に1度担当しており[注釈 1]、またソビエト戦争記念碑(英語版)[注釈 2]の警備駐屯権を有していた。この協定はドイツ最終規定条約が調印された1990年9月12日に終了した。
略史1963年のケネディの演説
1948年6月24日 - ソ連によって西ベルリンへ向かう全ての道路・鉄道が封鎖される(ベルリン封鎖)。西側諸国は多数の輸送機で物資を空輸する「ベルリン大空輸」で対抗。
1948年11月30日 - 従来のベルリン市とは別にソビエト連邦占領区域でベルリン市政府が発足し、ベルリン市が分断される(東西ベルリンの成立)。
1949年5月12日 - 封鎖が解除される。
1961年8月13日 - 東ドイツ政府は、有刺鉄線と警備兵を用いて、西ベルリンを東ドイツから物理的に一斉に遮断(ベルリンの壁建設の始まり)。
1963年6月26日 - 訪問したケネディ米国大統領が、公開演説で「Ich bin ein Berliner(I am a Berliner, 私はベルリン市民だ)」という有名なセリフを残す[注釈 3]。