西インド諸島海賊掃討作戦
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西インド諸島海賊掃討作戦
West Indies Anti-Piracy Operations

海賊船パリャーマとエル・モスキートを破ったUSSグランパス

時1817年-1825年
場所西インド諸島カリブ海メキシコ湾
結果海賊掃討に成功

衝突した勢力
 アメリカカリブ海の海賊
指揮官
ジェームズ・ビドル
デイビッド・ポータージャン・ラフィット
ジャン・ラ・ファルジュ
ルイ・オーリー
ロベルト・コフレシ

西インド諸島海賊掃討作戦(にしインドしょとうかいぞくそうとうさくせん、: West Indies Anti-Piracy Operations)は、19世紀前半にアンティル諸島とその周辺海域で、アメリカ海軍海賊の殲滅を狙った作戦である。1817年から1825年、アメリカ海軍は主にキューバプエルトリコ周辺の海上と陸地で海賊の追跡を続けた。1825年にロベルト・コフレシを捕まえた後、海賊の行動が希なものとなり、作戦は成功と考えられた。ただし、20世紀に入ってもそこそこの海賊行為はおこっていた[1]
掃討作戦1800年代初期の西インド諸島
原因

アメリカ海軍と密輸監視隊の艦船は、1822年までの数年間、カリブ海メキシコ湾で海賊と奴隷貿易を取り締まっていた。1822年には専用の戦隊が結成された。1821年9月にアメリカの商船3隻が海賊に攻撃されて捕まえられたことで、アメリカ合衆国議会ジェームズ・ビドル海軍代将にカリブ海を対象とする戦隊結成を認めた。その戦隊はフリゲート艦2隻(USSマケドニアン、USSコングレス)、コルベット艦2隻(USSサイアン、USSジョン・アダムズ)、スループ・オブ・ウォー2隻(USSホーネット、USSピーコック)、ブリッグ艦2隻(USSスパーク、USSエンタープライズ)、スクーナー4隻(USSグランパス、USSアリゲーター、USSシャーク、USSパーポイズ)で構成された。砲艦第158号と第168号の2艦も加わり、兵員は1,500名以上になった。この艦隊が派遣されるまでは、艦船の単独行動が行われていた。アメリカ西インド諸島戦隊の存在した数十年間で、スペインベネズエラ、キューバ、プエルトリコの海賊との対決を続けることになった。その行動の多くは海賊船を沈めるか捕獲することで終わったが、海賊が海岸に逃げてしまうことも多かった[1]
1817年 - 1821年

西インド諸島の海賊に対する作戦に最初に従事したアメリカの艦船は、スクーナーのUSSエンタープライズ、USSノンサッチ、USSリンクスと砲艦の158号、168号であり、1817年から1822年まで動員された。これらの艦船は全て単独で行動し、戦隊が設立されるまで指揮官が居なかった。この時期の海賊の多くはラテンアメリカのものであり、私掠船を兼ねていた。スペインに対する革命が広がり、革命政府もスペインも私掠免許状を発行した。私掠船はアメリカ商船を捕獲し、その乗組員を攻撃することが多かったので、海賊と呼ばれることになった。1819年、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローが、フリゲート艦USSコンステレーション、コルベット艦USSジョン・アダムズ、USSノンサッチの戦隊で、オリバー・ハザード・ペリー代将をベネズエラに派遣した。ペリーが受けていた命令は、ベネズエラ私掠船に捕獲されたアメリカ商船の返還を要求し、二度とアメリカ商船に対する私掠行為を行なわないよう保証を取り付けることだった。ペリーはその任務を完遂して、条約が8月11日に調印されたが、その帰路にトリニダード島黄熱病のためにペリーが急逝したので、合意が取り消された。1817年12月22日、ジョン・アダムズが海賊のルイ・オーリーに対して、フロリダ州アメリア島の基地を明け渡させた。後にジョン・アダムズはビドル代将戦隊の旗艦になった[1]

1820年までに、海賊や私掠船との敵対関係が強くなり始め、アメリカ合衆国の艦船が何度か海戦を行ったが、この年に全部で27隻のアメリカ商船が捕まっていた。1818年から1821年の間に、USSエンタープライズはまずニューオーリンズ戦隊で、後に西インド諸島戦隊で従事し、13隻の海賊船と奴隷船を捕獲した。1819年10月24日、J・R・マディソン海軍大尉の指揮していたUSSリンクスがメキシコ湾で2隻の海賊スクーナーと2隻の船を捕獲し、11月9日にはガルベストン湾で別の海賊船を捕まえた。USSリンクスはジャマイカに向けて航行していた1820年1月に行方不明となり、嵐のために沈んだ可能性がある。その乗組員の誰も見つからなかった。

1821年10月、USSエンタープライズがキューバのアントニオ岬沖で航行しているときに、4隻の海賊船に捕まえられていた3隻の商船を救うことになった。ボートが降ろされて、海賊を攻撃し、結果的に40人以上の海賊を殺し、2隻の海賊船を捕獲した。その1か月後、エンタープライズはアントニオ岬近くの海賊基地を攻撃し、その地域の海賊を一掃した。1821年9月、アメリカ商船3隻がキューバのマタンサス沖で虐殺された。1隻の乗組員は拷問され、その船は火を付けられたが、生存者はボートで岸まで辿り着いた。2隻目の商船では3人が殺され、3隻目は乗組員が乗ったまま焼かれた。この事件が海賊掃討作戦を継続する主要な理由の1つになった。

USSホーネットは1821年10月29日に、モスコーという名前の私掠スクーナー船を捕獲し、12月21日には戦わずして海賊船を捕まえたが、その乗組員は岸まで逃げた[1]

1821年12月16日、USSパーポイズのジェイムズ・ラメイジ大尉がアントニオ岬沖を航行しているときに、商船ブリッグボリーナを含め敵船5隻を発見した。海賊の幾らかは岸まで逃げたが、多くは抵抗したので、アメリカのボート5隻が海賊船5隻を焼いて破壊した。ボリーナは解放した。その報告書に拠れば、海賊3名が捕獲され、数名が殺された。1821年秋、ジョン・エルトン大尉の指揮するUSSスパークがボストンを出港し、対海賊作戦に割り当てられた戦隊に加わった。1822年1月、エルトンはオランダの国旗を掲げていた海賊のスループ船を捕まえた。7人の捕虜を裁判のためにチャールストンに連行した後、スパークはカリブ海に戻り、その後の3年間任務に留まった。この時までに西インド諸島戦隊が公式に結成されていた[1]
1822年 - 1823年板の歩行、ハワード・パイル画

アメリカ海軍が海賊に対する作戦を始めると、イギリス海軍も即座に追従し、独自の西インド諸島戦隊を創設した。1822年と1823年にはイギリス海軍と海賊船の間に重要な海戦が3回起こった。1822年3月、USSエンタープライズのボート乗組員が、アントニオ岬に近いクリークで2隻のランチと4隻のボートを捕まえ、3月6日にはさらに8隻の船と150人以上の海賊を捕まえた。1822年7月、ウィリアム・スミス船長のイギリス商船が、スペインの海賊スクーナーエマヌエルに乗っ取られた。この海賊はイギリスの指揮官に「板の歩行」をやらせ、スミスが泳いで逃げようとしたときに、背中を銃で撃たれた。この船には船長の14歳になる息子も乗っていたが、子供が泣き叫ぶのを聞いていられなくなった海賊船長が、その頭を潰した。USSグランパスは1822年8月15日に、スペインの国旗を掲げたブリッグ船パリャーマに遭遇した。グランパス指揮官のグレゴリー大尉はこの船が海賊船ではないかと疑い近付いていったが、そのときにパリャーマが発砲したので、僅か3分半の戦闘が行われた。敵船に乗り移ると、海賊はプエルトリコから来たものであり、このようなときのために私掠許可状を持っていることが分かった。この許可状は偽物だったので、海賊を拘束し、キューバでスペイン当局に渡された。当時、アメリカ合衆国には捕まえた海賊を投獄する権限がなかったので、彼等をスペインに渡すのが通常の手続きだった[1][2]

アメリカ海軍はスペイン領土に上がった海賊を追撃することもできなかった。1822年4月、USSマケドニアンのデイビッド・ポーター代将は指揮任務に就くと、その最初の任務としてキューバ総督ドン・ニコラス・マーイ総司令官、およびプエルトリコ総督との交渉にあたった。どちらの総督も、アメリカ陸戦部隊の上陸要請を断ったが、これと同じ時期に、アメリカ合衆国政府は、遠隔地であれば西インド諸島戦隊が上陸させることを認めた。1822年9月28日から30日、ポーター代将はキューバのフンダ湾で海賊軍を攻撃し破壊した。9月28日にはまた、ピーコックがハバナから約60マイル (96 km) で、海賊で一杯のボートを捕獲した。その日の午後、ピーコックは商船のスピードウェルと出遭ったが、この商船はその数時間前に海賊に襲われたところだった。ピーコックのスティーブン・カッシン艦長はボートによる遠征隊を派遣し、4隻のスクーナーを捕獲したが、海賊の大半には逃げられてしまった。

1822年9月30日、イギリス海軍HMSタイン(大砲26門搭載)が商船スループエリザ(大砲1門搭載)を護衛しているときに、ファームユニオンという船名の海賊ファルーカ(大砲5門搭載)に攻撃された。それに続いた戦闘で、イギリス兵が乗り移り、海賊船を捕まえた。海賊10人が殺され、他の者は船を捨てて逃げ出した。1822年11月2日、密輸監視船USRCルイジアナが、USSピーコックやイギリス海軍のスクーナーHMSスピードウェルと共に、ハバナ沖で5隻の海賊船を捕まえた。1822年11月8日、USSアリゲーターのウィリアム・ハワード・アレン大尉が、5隻の商船を人質にしていた敵のスクーナー3隻に対する攻撃を指揮していたときに戦死した。9月11日の海戦では、2隻のスクーナーが捕獲され、少なくとも14名の海賊が殺された。アレン大尉が戦死したことによって、アメリカ合衆国海軍長官スミス・トンプソンは、この戦隊に新しい艦船を購入することをポーター代将に認めた[1]


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