襄城郡
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襄城郡(じょうじょう-ぐん)は、中国にかつて存在した晋代から隋代にかけて、現在の河南省中部に設置された。
概要

266年泰始2年)、西晋により潁川郡が分割されて襄城郡が立てられた。襄城郡は豫州に属し、郡治は襄城県に置かれた。晋の襄城郡は襄城・繁昌?定陵父城昆陽舞陽の7県を管轄した[1]336年咸康2年)、襄城郡は廃止されて、潁川郡に編入された[2]

南朝斉のとき、南襄城郡・東襄城郡・北襄城郡・中襄城郡が立てられたが、いずれも北魏に占領された[3]

北魏のとき、襄城郡(北斉北周文城郡)は豫州に属し、武陽義綏遂寧の3県を管轄した。あるいは襄城郡は広州に属し、繁昌・襄城の2県を管轄した[4]。あるいは襄城郡(南朝斉の北襄城郡、西魏・北周の襄邑郡)は荊州に属し、方城?城伏城舞陰翼陽清水北平赭城の9県を管轄した。あるいは襄城郡は南襄州に属し、陳陽上馬の2県を管轄した。あるいは襄城郡は南広州に属し、襄城1県を管轄した[5]

東魏・北斉のとき、襄城郡は南広州に属し、扶城南陽の2県を管轄した。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、襄城郡は廃止されて、伊州に編入された。606年大業2年)、伊州は汝州と改められた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、汝州が襄城郡と改称された。襄城郡は承休?城陽?汝源汝南魯山?城の8県を管轄した[6]

621年武徳4年)、王世充を平定すると、襄城郡は伊州と改められ、襄城郡の呼称は姿を消した[7]
脚注^晋書』地理志上
^宋書』州郡志二
^南斉書』州郡志下
^魏書』地形志二中
^魏書』地形志二下
^隋書』地理志中
^旧唐書』地理志一










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