?湛之(ちょ たんし、義熙7年(411年)- 大明4年5月25日[1](460年6月29日))は、南朝宋の官僚。字は休玄。本貫は河南郡陽?県。 ?秀之(?淡之・?裕之の兄)の子として生まれた。劉裕の七女の始安公主を妻に迎え、?馬都尉・著作郎に任じられた。始安公主が死去すると、劉裕の五女の呉郡公主を後妻に迎えた。公主の夫たちは実務の才能のない者ばかりだったが、湛之は謹直で才幹を見せたため、文帝に知られるようになった。揚武将軍・南彭城沛二郡太守・太子中庶子・司徒左長史・侍中・左衛将軍・左民尚書・丹陽尹を歴任した。元嘉30年(453年)、劉劭が文帝を殺害して帝を称すると、湛之はその下で吏部尚書となり、輔国将軍・丹陽尹として出され、石頭の軍事を統轄した。 孝武帝が劉劭を討つべく起兵すると、劉劭は自ら新亭塁を攻撃した。湛之は劉劭の命を受けて水軍を率い進軍した。湛之は子の?淵
経歴
大明4年5月丙戌(460年6月29日)、死去した。享年は50。侍中・特進・驃騎将軍の位を追贈された。諡は敬侯といった。
子女
?淵
?澄(?令?の父)
女(劉濬の妻)
脚注^ 『宋書』巻6, 孝武帝紀 大明四年五月丙戌条による。
伝記資料
『宋書』巻52 列伝第12
『南史』巻28 列伝第18