褒?
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褒?
の王后
百美新詠図伝
在位紀元前774年?紀元前771年

配偶者幽王
子女伯服
氏族?姓
出身諸侯国
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褒?(ほうじ)は、西周幽王(在位紀元前782年 - 紀元前771年)の2番目の后。美貌によって王を惑わせ、西周を破滅に導いた、亡国の美女として有名。
『史記』の記述

史記』周本紀に記された彼女の物語は、以下のようなものである。
出自

の時代、宮中の庭に神龍が出現した。夏の帝は龍に?(口の泡)を貰い、箱に納めた。やがて夏王朝は亡び、この箱は王朝に伝わる。さらに殷が亡び、箱は周の王家に伝わったが、その数百年の間に、一度も開けられることがなかった。

周の脂、の世になり、この箱を開いたところ、中から泡が発して庭じゅうに溢れだした。やがて泡は一尾の蜥蜴と為り、後宮に入り、七歳の童女に遭った。やがて次代の宣王の時代、この童女が十五歳になったとき、男も無くひとりの女児を産んだ。人は恐れ、この子を捨てた。

そのころ巷間に「?弧?箙、実亡周国(山桑の弓に?の矢筒、周の国が亡びよう)」という童謡がはやった。宣王が調査させると確かに山桑の弓と?の矢筒を売っている夫婦がいたので、捕えて殺そうとした。この夫婦は逃亡したが、途中で道ばたで泣いている捨子を見つけ、哀れに思って拾いあげ、ともに褒国に逃げた。その後、褒の者に罪があり、育ったこの捨子の少女を宮中に差し出して許しを乞うた。そこでこの褒国から来た少女を、褒?と呼んだのである。

幽王3年(紀元前779年)、王は後宮で褒?を見て愛するようになり、やがて子の伯服が生まれた。周の太史(記録官)伯陽は「禍成れり。周は滅びん」と言った。
亡国の笑い

褒?は、笑ったことがなかった。幽王はなんとか彼女を笑わせようと手を尽くした。ある日、幽王は緊急事態の知らせの烽火を上げさせ、太鼓を打ち鳴らした。諸将はさっそく駆けつけたが、来てみると何ごとも無い。右往左往する諸将を見た褒?は、そのときはじめて晴れやかに笑った。喜んだ幽王は、そののちたびたび無意味に烽火を上げさせたので、次第に諸将は烽火の合図を信用しなくなった。また王は佞臣の?石父を登用して政治をまかせたので、人民は悪政に苦しみ、王を怨むようになった。

王はとうとう当時の王后だった申后と太子宜臼(後の平王)を廃し、褒?を王后にして伯服を太子にした。怒った申后の父の申侯は反乱して、蛮族の犬戎の軍勢と連合して幽王を攻めた。王は烽火を上げさせたが、応じて集まる兵はなかった。反乱軍は驪山で幽王を殺し、褒?を捕え、周の財宝をことごとく略奪して去った。この乱で、西周は滅びたのである。
傾国の美女

褒?をはじめ、妲己王朝の末喜春秋時代西施など、古代中国史には美貌によって王君を破滅させ、国を滅亡に追いこむ魔性の女性がしばしば現れる。のち『漢書』から、国が傾く原因になるほどの美女を「傾国傾城」と呼ぶようになった(巻九十七上 孝武李夫人伝)。のちに「傾城」は江戸時代の日本で花魁の別称になった。
妖獣伝説

褒?の出自に関する記録は奇怪で神話的なうえ、年代を計算すると50歳を過ぎてから王の寵を得たことになり史実性が怪しい。褒?の実体が曖昧なことから、後世に数多くの伝説が生まれた。『平家物語』では、褒?は野干という魔獣の化身であったという。玉藻前の伝説では褒?は玉藻前の前歴の一つとして挙げられている。
褒?を主題とした作品

短編小説「褒?の笑」(
井上靖

漫画「柏舟」(東山聖生。『天の木霊』収録)

関連項目

妲己

末喜


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