複雑な彼
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複雑な彼
作者
三島由紀夫
日本
言語日本語
ジャンル長編小説恋愛小説
発表形態雑誌連載
初出情報
初出『女性セブン1966年1月1日号-7月20日号
刊本情報
出版元集英社
出版年月日1966年8月30日
装幀沢田重隆
総ページ数225
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『複雑な彼』(ふくざつなかれ)は、三島由紀夫長編小説。国際線のスチュワード(男性フライトアテンダント)に恋するお嬢さんと、複雑な「彼」の遍歴をめぐる物語。三島の純文学作品とは趣の異なる娯楽的作風の恋愛小説である。

27歳の主人公〈宮城譲二〉のモデルは、暴力団員時代に前科がある、日本航空の元男性客室乗務員で、その後作家となった安部譲二(本名・安部直也)である[1]。「安部譲二」というペンネームは、この主人公の名前に由来する[2]

1966年(昭和41年)、週刊誌『女性セブン』1月1日号から7月20日号に連載され、同年8月30日に集英社より単行本刊行された[3][4]。書籍出版に先立つ同年6月22日には、田宮二郎主演で映画も封切られた[1]
作品成立・モデル

三島由紀夫は『複雑な彼』の執筆のきっかけと動機について、以下のように語っている。「複雑な彼」は、ある友人からきいた話をもとにして書いたもので、私に多少外遊の経験があるものだから、自分の知つてゐる土地を、この奔放な主人公に、自由自在に飛び廻らせてみたかつた。それほど行動力のない私の代理で、主人公に飛び廻つてもらつたやうなものだ。 ? 三島由紀夫「大映映画『複雑な彼』―原作者登場」[5]

この〈ある友人〉というのが安部譲二のことで、安部は後年に、「『複雑な彼』は、私の二十七歳までの半生記で、背中に彫物が……等の細部を除けば、なんとも私が生きて来た事実そのままです」とし[6]、三島との出会いについては、「思えば、三島由紀夫先生と私は永い御縁でした。あれは昭和二十八年頃のこと、私が初めて用心棒を組から命じられたゲイバーで、私は先生とお近づきになったのです」と語っている[6][2][注釈 1]

なお、三島は〈複雑な彼〉という意味について、〈ある意味で実に単純に男性的な人間を、女性の側から見た表現といへるでせう。われわれは、自分と反対のを、ともすると神秘的に見すぎるのです〉と説明しながら[7]、この主人公についてと、田宮二郎が映画でその役をやることになった経緯について以下のように述べている[7]。彼の行動は男性のですが、ふつうの男はとても彼のやうに、かつて気ままには、ふるまへません。だれしもわが身がかはいいので、いいかげんのところで妥協して、身をかばひます。しかし、彼はちがひます。彼はいつか自分の自由のためにつまづかなければならない。かういふふうに、男が男であるためにつまづく、といふ例は現代ではますます少なくなつてゆく。男性の女性化とは、男性の自己保全であり、なるたけ安全に生きよう、失敗しないで生きようとすることを意味します。
この小説の校正刷りを読んで、私の学校の後輩である田宮二郎君が、「この役をやれるのは日本中で俺一人だ。」と公言したことから、大映で映画化されることになりました。“その意氣たるや壮”であつて、俳優はそれくらゐの気概がなくてはなりません。 ? 三島由紀夫「『複雑な彼』のこと」[7]
あらすじ

父の仕事の秘書としてアメリカへ同行するようになった森田冴子は、サンフランシスコ行きのNAL機に乗っていた。機内には酒のサービスを優雅にこなす惚れ惚れするような精悍な背中のスチュワードがいた。彼は英国流の英語とフランス語も流暢にこなし、気持のいい笑顔の男性だった。彼は浅黒い童顔で鼻がこころもち曲がっているのが残念だったが、冴子に強い印象を残してホノルルで降りていった。

サンフランシスコに着いた冴子は、元・スチュワーデスの友人・ルリ子にさりげなく、そのスチュワードのことを話題にしてみた。ルリ子はすぐに誰か分かり、彼が昔、井戸堀の仕事をしていて、仇名が「井戸堀君」ということを話した。「あいつ、いい加減な男よ」と言うルリ子だった。

ニューヨークで冴子の護衛に付いたハワイ出身の2世の社員からも、ロンドンバーテン修業をしていたという彼の噂を冴子は耳にした。彼は宮城という名前だった。冴子は帰りの飛行機も往路と同じにしたが、宮城は搭乗して来なかった。しかし、しょんぼりしている冴子に話しかけてきた年配のパーサーから、彼の噂を聞きだすことができた。

宮城は銀行員の息子で横浜生まれだが、19歳の頃に名古屋沖仲仕の小頭をしていたらしく、少年の頃には、新聞社英国特派員をしている冴子の伯父・須賀に世話になったことがあるという話も知った。日本に帰った冴子は伯父・須賀のいる新聞社を訪ねた。須賀は昔、宮城の父親から、ロンドンの学校を追い出された息子の身柄をあずかってくれと頼まれ、16歳の譲二を新聞社のカメラマン助手として使っていたのだった。

図体の大きい譲二は、当時イギリス王室戴冠式のため訪英した皇太子明仁親王の写真を外人達の垣から上手く撮影し重宝がられた。


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