裴矩
[Wikipedia|▼Menu]

裴 矩(はい く、557年 - 627年)は、中国代より初代にかけて活躍した功臣。字は弘大、敬と諡される。本貫河東郡聞喜県。父の裴訥之(裴譲之裴諏之の弟)は北斉朝に仕えた。
生涯

578年北周朝の大司馬であった楊堅に従い、朝が成立してからは、南朝討伐軍に加わった。嶺南地方の攻略に遣わされ、また、牛弘による『隋朝儀礼』編纂に関わった。その他、『開業平陳記』をも撰した。

590年、聞喜県公の爵を受けて、民部侍郎となり、内史侍郎、吏部侍郎を歴任した。

604年煬帝が即位すると、東京洛陽府の造営に尽力した。また、605年より610年の間に、4度以上河西地方に派遣されている。605年の第一回の遠征の時に、『隋西域図記』3巻を撰して煬帝に献上した。また、中国に帰朝すると、黄門侍郎となって、「選曹の七貴」の一人に数えられている。

611年高句麗遠征に従軍した。隋末、宇文化及に仕えていたが、竇建徳に捕らえられる。621年に竇建徳が唐朝によって滅ぼされると、唐朝に帰順の意を表した。
伝記資料

隋書』巻67

旧唐書』巻63

新唐書』巻100


更新日時:2019年6月12日(水)10:00
取得日時:2019/06/15 05:41


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:2643 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef