補陀落渡海
[Wikipedia|▼Menu]
補陀落渡海船那智参詣曼荼羅。最下部右側に補陀落渡海船を描く。渡海船の上の寺院が補陀洛山寺。

補陀落渡海(ふだらくとかい)は、昔の日本で行われた、仏教の宗教行為。観音菩薩浄土である補陀落山への往生を願い、海上へ船出する。補陀落山は南にあると考えられたため、特に中世熊野土佐から出発した例が多い。事実上命を落とす行為であり、重石を身に付けて入水したり、船に穴を空けて沈めたりする場合もあった。のちには亡くなった僧侶を船に乗せて送り出す水葬の一種としても行われた。
概要

南方に臨む海岸から行者が渡海船に乗り込み、そのまま沖に出るのが基本的な形態である。伴走船2隻とともに3隻で船団を組む場合もあり、伴走船が沖まで曳航してから綱を切って見送る。

命を投げ打つ覚悟で行うものであり、渡海船に窓や扉はなく、乗船後外から釘を打ち付けたという。ほとんどの場合餓死あるいは沈没死したが、琉球諸島に漂着し生きながらえた例もある。船で漂流する場合はそのように生存する可能性もなくはなかったため、重石を身に付けて入水したり、船に穴を空けて沈めたりするなど、確実に命を落とす方法もとられた。

江戸時代になると、遺体を渡海船に乗せて送り出す水葬の一種として行われるようになり「補陀落渡り」と称した。

現在確認できる補陀洛渡海の記録は57件を数えるが、その中には『平家物語』『とはずがたり』に現れた足摺岬の地名由来説話や、水難死との異説を持つ例も含んでいる。

最古の事例は貞観10年(868年)11月3日に紀伊国和歌山県)熊野で慶龍上人によって行われたもので[1]、最後の事例は明治42年(1909年)に高知県足摺岬で金剛福寺の天俊上人によって行われたものである[2][1]。最も有名かつ多くの資料が残るものは紀伊国熊野の那智補陀洛山寺を拠点に行われたもので、『熊野年代記』には貞観10年から享保7年(1722年)まで20例の記録がある[3]土佐国室戸岬・足摺岬も渡海の中心地となった。常陸国那珂湊の一例を除いては西日本における記録であり、日本海側山陰でも出雲国に一例がある。

補陀落渡海のピークは16世紀[4]、57件のうち実に半数近くの27件が16世紀のものである[5]

渡海の時期は季節風によって南方に向かうのに適した11月が選ばれることが多く、出発日は観音菩薩の結縁日である18日が選ばれた[6][4]
思想的および地理的背景

補陀落(補陀洛、普陀落、補陀洛迦、補陀落迦、補怛落迦、補怛洛迦、布怛洛迦)というのは、サンスクリット語の「Po?alaka」(ポータラカ)の漢訳であり、白華、小白華、小花樹、光明、海島とも言われる。補陀落というのは観音菩薩の浄土であり、その場所は諸説あるがインドの南海岸や中国舟山列島普陀山などと考えられた[7]。詳細は「補陀落」を参照

日本では那智山日光山二荒山)、室戸岬足摺岬などが補陀落に擬され、観音信仰の霊場となった[8]。日光には、毎年8月(旧暦6月)に行われる「船禅頂」(補陀落禅頂)という、中禅寺湖畔の勝道上人の遺跡を巡って花を手向ける行事がある[9]

また熊野は古くから捨身行の行われた聖地であった。『日本霊異記』下巻・第1「法華経を憶持する者の舌、曝りたる髑髏の中に著きて朽ち不る縁」には、熊野村の山中で、ある禅師が麻の縄で岩と自分の足を繋ぎ、断崖から身を投げたが、法華経を唱える舌は死後3年を経ても朽ちることなく、経が聞こえ続けていたという逸話がある[10]。『本朝法華験記』巻上・第9の、日本最初とされる応照法師の焼身も、熊野那智においてのことである[11]

梁塵秘抄』には、以下の歌がある[12]。観音大悲は舟筏、補陀洛海にぞ浮べたる。善根求むる人しあらば、のせて渡さむ極楽へ。 ? 『梁塵秘抄』巻2仏歌

今昔物語集』巻13・34話に、補陀落渡海の原型と言える以下の逸話がある[13]

天王寺の僧・道公は、熊野に参詣し安居を勤めた帰途、紀伊国美奈部郡[注釈 1]和歌山県日高郡みなべ町付近)の海岸の大樹の下で野宿した。夜半、馬に乗った人2、30騎ばかりが来て、「樹の本の翁はいるか、お供をせよ」と言ったのに対し、「馬が足をくじいていてお供できません、明日には治療をして、あるいは他の馬でも見つけて参ります」と答える者があったので、道公は自分以外にも樹の下に人がいたのかと驚いた。

夜が明けてから道公が樹の周りを探しても人はなく、古い道祖神があるだけだった。道祖神の前には絵馬があり、足の部分が破損していた。道公は、昨夜の翁は道祖神だったかと思い、絵馬の足の部分を繕って、その日もその樹の下に留まった。すると夜半に前日と同じく馬に乗った多くの人が来て、道祖神も馬に乗って出て行った。

暁に道祖神が帰ってきて、道公に馬の治療の感謝を述べるとともに、馬に乗った者達は行疫神(疫病神)であり、自身はその先導として使役され苦しめられているので、上品(じょうぼん)に生まれ変わりたいと言った。道公は自分の力は及ばないと言ったが、道祖神は「この樹の下に3日留まって、法華経を唱えてくだされば、私は苦の身を捨てて楽の所に生まれましょう」と言ってかき消すようにいなくなってしまった。

道公はその言葉通り三日三晩読経をしたところ、4日目に道祖神が現れ、「法華の功徳ににり私はこの身を捨てて補陀落山に生まれ変わり、観音の眷属として菩薩の位に昇ろうとしています。この真偽を知りたければ、小さい船を作って私の木像を乗せて海に浮かべ、どうなるかご覧ください」と言ってかき消えてしまった。

道公がその言葉通り柴の船を作り、道祖神の像を乗せて海に浮かべると、波も風もないのに柴の船は南に向かって去っていった。道公は船が見えなくなるまで礼拝した。この郷にも、道祖神が菩薩の形となって南に飛び去る夢を見た老人がいた。道公は天王寺に帰ってからますます信心深く法華経を詠唱した[14]

同様の逸話は『本朝法華験記』巻下・128話、『元亨釈書』巻9[15]にも見える。
渡海船

補陀落渡海に使う渡海船についての史料は少ないが、『那智参詣曼荼羅』の図像や後述する実例の記録から断片的に拾うことができる。

吾妻鏡』に見える智定坊の渡海船は、乗船後外から釘を打ち付け、扉は一つもなく、日月の光は入らず、灯火に頼るしかなく、30日ほどの食物と油を用意するだけだったという[16]

『那珂湊補陀洛渡海記』には、享禄4年(1531年)に高海上人によって建造された渡海船についての詳しい記述がある[17][18]

前後には33座(観音菩薩が33身に変化して衆生を救う事に由来)を設ける。

左右には19座(『法華経』普門品の十九段説法に由来)を設ける。

四方には「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」の四門を開く。

多羅葉の梵文(貝葉経)

素怛覧の貫線

は観音の


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:106 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef