補助紙幣
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補助貨幣(ほじょかへい)は、主たる貨幣、すなわち本位貨幣に対する補助的な貨幣に対して規定されていた名称である。おもに小額決済のために発行されていた。19世紀頃から各国で金本位制が導入された際、銀貨の実質価値が額面価値より減量され補助銀貨となる例が多かった。
概要

「補助貨幣」は本位貨幣制度下における概念であり、本位貨幣が存在しない現在では法令に公式の「補助貨幣」は存在しない。

日本では1988年3月末に貨幣法および臨時通貨法が廃止されるまでは、「補助貨幣」は銀行券に対立する用語として硬貨の意味として一般には用いられていた[1]。これは1988年以前の約半世紀にわたって日本の硬貨が臨時通貨法を根拠法として臨時補助貨幣として発行され、当時の事実上の現金通貨が日本銀行券と臨時補助貨幣のみであったからである[1][2][3][注釈 1]。実際には、貨幣法の下では臨時補助貨幣も含めて日本の補助貨幣は本位貨幣である金貨に対する補助貨幣であった[1][注釈 2]

貨幣法および臨時通貨法が廃止され、1988年4月以降通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律が日本の貨幣(硬貨)を発行する根拠法となった現在では、造幣局が製造し政府が発行する硬貨は「貨幣」と称し「補助貨幣」と称することは法令上正しくない[4]。また、臨時補助貨幣も現在の「貨幣」も日本銀行券に対する「補助」と規定されているわけではない。何の「補助」であるかの問に答えるには貨幣関連の法令や歴史的経緯を理解する必要がある[2][3]

通常は硬貨が補助貨幣に充てられたが、時に政府紙幣などの紙幣が用いられることもあった。銀行券などと共に法定通貨とされることが通常だが、法定通貨としての強制力においては、一回の決済での総額面や使用枚数に制限があることが多い。

小額の本位貨幣を鋳造することは技術面の問題から困難であり、これを補うために本位貨幣の素材よりも素材価値が低い金属で鋳造されることが多い。又、小額貨幣材料としての銀の高騰により銀貨が国外に流失・溶解されて小額貨幣の不足を来すなどの事象に遭遇した経験から、額面価格よりも低い価値素材で鋳造される場合や、銀貨では額面の実質価値より減量するか品位を下げる等の措置が取られる場合があり[5]定位貨幣として位置づけられている[6]。この定位貨幣のうち小額のものは、主として国内の小取引に用いられ貨幣価値の単位以下であり、本位貨幣の交換媒介物の作用を補助する所から補助貨幣と称される。補助貨幣と定位貨幣はほぼ同一の様に扱われることが多いが、イギリスの1クラウン(5シリング)銀貨(1816年以降)やアメリカの1ドル銀貨(1878年以降)のように高額のものは定位貨幣と位置付けられた[7]

このため、制限法貨として一定の金額の範囲内でのみ強制通用力をもっている場合が多かった。従って経済の混乱や補助貨幣の素材の不足による素材価値の上昇によって額面価値と素材価値に大きな乖離が発生した場合には補助貨幣が溶解されて、必要な流通量が確保できないという状況も想定された。

補助貨幣は本位貨幣と異なり自由鋳造は認められない。仮に認められるとなれば一般に補助貨幣は額面が実質価値を上回る定位貨幣としての性質を持つため、差益を得ようと造幣局に地金を輸納して補助貨幣の鋳造を請求する者が殺到して補助貨幣の供給過剰が生じ、流通価値が実質価値に接近するまで低落し流通の状態を攪乱するからである。補助貨幣の発行は政府の計算推定によって鋳造が制限されるべき性質のものであった[8]
日本の補助貨幣の歴史

江戸時代において、1765年に鋳造された五匁銀は、元文小判に対し12枚の固定相場制を意図したもので事実上の金銀複本位制金銀比価1:11.48)であったが市場では敬遠され流通しなかった。1772年に鋳造された南鐐二朱銀元文銀より額面に対し純銀量が約25%減量されており小判に対する事実上の補助貨幣(定位貨幣)であった。しかし御触で補助と規定されてもなければ通用制限額が設定されたわけでもなかった[9]1871年発行の50銭補助銀貨。

明治4年5月10日(1871年6月27日)公布の新貨条例では本位金貨の他に50銭以下の貨幣が定められたが、この法令の文面では「定位ノ銀貨幣」および「定位ノ銅貨」(後に「銅貨」と修正)と定められ、さらに「定位トハ本位貨幣ノ補助ニシテ制度ニヨリテ其価位ヲ定メテ融通ヲ資クルモノナリ故ニ通用ノ際コレカ制限ヲ設ケテ交通ノ定規トス」と明記されている。この新貨条例は明治8年(1875年)6月25日に「貨幣条例」と改められて公布され、「補助ノ銀貨」および「補助ノ銅貨」の表記となった[10]。補助銀貨の通用制限額は金種の混用に拘りなく一回の取引につき最高額で十圓、銅貨は同様に一圓とされた。

明治4年当初は、50銭以下の銀貨は1圓銀貨より額面に比して量目・品位共に削減されていたが、明治6年から量目は額面比例、品位のみ下げる改正となった。

明治30年(1897年)10月1日施行の貨幣法においては、本位金貨の他に50銭以下の銀貨幣、白銅貨幣および青銅貨幣が定められ、これらにも法貨としての通用制限額が青銅貨、白銅貨共に金種の混用に拘りなく一回の取引につき最高額で一圓と定められた[11]。白銅貨については大正9年(1920年)から通用制限額は五圓に引き上げられた[12]。1906年、1918年および1922年には銀価格の高騰から補助銀貨の量目削減の改正が行われた。

昭和13年(1938年)6月1日施行の臨時通貨法では政府は貨幣法に定めるものの他に臨時補助貨幣を発行することが可能となり、これ以降発行される硬貨はすべて通用制限額が定められた臨時補助貨幣となった[13][14][15]。臨時補助貨幣は十銭および五銭が五圓、一銭が一圓まで法貨として通用すると規定された。五十銭黄銅貨幣の通用制限額は十円までとされ、以降追加された円単位の臨時補助貨幣の通用制限額はすべて額面の20倍に定められた。

昭和63年(1988年)4月1日施行の通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律では、本位貨幣が廃止され一部の臨時補助貨幣のみが同法律に基づいて発行された「貨幣」と見做されることになり引続き通用力を有したのであるが、本位貨幣の廃止に伴い名目上「補助」は意味を成さないものとなり、同法律により「貨幣」と称されることとなった[4][16]。このため現在、日本円の硬貨は「貨幣」とは称するものの、この法律施行以前に発行されていた、臨時補助貨幣の様式および法定通貨としての通用制限を事実上そのまま踏襲したものであり、補助貨幣的な性格を有するものである。

さらに、同法律では附則において、その他の法令の条文に従来「補助貨幣」とあったものも「貨幣」と変更されることが規定され、「補助貨幣」は法令から姿を消した[4]
附則第13条 造幣局特別会計法の一部改正


「補助貨幣回収準備資金」を「貨幣回収準備資金」に改める。

「補助貨幣製造事業予定計画表」を「貨幣製造事業予定計画表」に改める。

「補助貨幣製造事業実績表」を「貨幣製造事業実績表」に改める等。

附則第14条


「補助貨幣損傷等取締法」を「貨幣損傷等取締法」に改題する。

イギリスの補助貨幣の歴史1844年銘の1クラウン定位銀貨

イギリスにおいて、造幣局長であったアイザック・ニュートンは、1717年に1ギニー金貨は銀貨21シリングに等価であるとして金銀比価を定めた[17][18]。この当時、1トロイポンド(373.24g)の金貨(品位22/24、純金11トロイオンス:342.14g)は44.5ギニーに相当し、1トロイポンドの銀貨(品位925/1000、純銀11.1トロイオンス:345.25g)は62シリングに相当したため、金銀比価は1:15.21となった。

ニュートンが金銀比価を定めることにより法的には金銀複本位制となったが、この比価は当時の相場より金高に設定されていたため、悪貨である金貨が流通を独占し銀貨は国外に流出した[19]。また国内に流通していた銀貨には削り盗りされた軽量銀貨(clipt money)が横行し、1774年には銀貨による支払いは1回に付25ポンドまでを法貨として通用すると定め、それ以上は銀地金扱いとなり、銀貨は実質的に補助貨幣扱いとなった。1798年には銀貨の自由鋳造が停止され、1816年(Coinage Act 1816)の金本位制施行時には銀貨については1トロイポンドの銀貨(品位925/1000)が66シリングと軽量化され補助貨幣(定位貨幣)となった[20][21]


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