裏千家
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同名の歌い手ユニットについては「浦島坂田船」をご覧ください。
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裏千家
独楽紋
本姓称・清和源氏義国流
家祖千利休
種別地下人茶道家
平民
出身地和泉国
主な根拠地山城国
加賀国
京都府
著名な人物千利休
一燈宗室(8代)
精中宗室(11代)
直叟玄室(12代)
鉄中宗室(13代)
玄黙宗室(16代)
凡例 / Category:日本の氏族
裏千家今日庵の兜門

裏千家(うらせんけ)は、茶道流派の一つ。「裏千家」の語は、家元とその家族らで構成される宗家を指すことも、「一般財団法人今日庵」などの法人組織を指すことも、弟子・門下生を含む流派組織を指すこともある。茶道諸流派中最大の流派の一つである。

裏千家の名称は、千利休からの家督を継いだ本家表千家(不審菴)に対し、今日庵が通りからみて裏にある意。宗家は京都市上京区小川寺之内上ルにあり、表千家宗家と隣接している。その茶室・今日庵(こんにちあん)は裏千家の代名詞でもある。なお、今日庵の由来は、宗旦が亭主をつとめた茶席に遅れた清巌和尚に、所用があるとして留守にした宗旦が明日の来席を請うた際に残した清巌和尚の「懈怠比丘不期明日」の書き付けから。「千家」といえば本来、本家の表千家のことであったが、裏千家の活躍もあり、近年になって分家である武者小路千家と併せて「三千家」というようになった。
特徴

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三千家の点前作法は基本的によく似通っているが、心得が無くてもわかる比較的目立った違いをいくつか挙げる。

裏千家は薄茶をよく泡立てる。表千家、武者小路千家では泡をあまり立てない。

裏千家の茶筅は白竹のものである。表千家では煤竹を、武者小路千家では胡麻竹(染み竹)を用いる。

菓子器は裏千家が蓋なしのいわゆる鉢、表千家と武者小路千家は蓋付きのすなわち喰籠(ジキロ)を使う。

近年の話だが道具の箱の紐色が裏は深い緑、表が黄、武者小路が茶と紺である。

女性の袱紗(ふくさ)は表千家は朱無地だが裏千家は赤または朱無地のどちらか、男性は紫無地が主流である。

許状

「許状」(きょじょう)は、稽古することを許可する趣旨の書面であり、実力認定の意味合いが強い「免状」「免許」「段位」などとは性格が異なる。裏千家ではさらに平成12年(2000年)から「許状」と対応した「資格」制度に改定した[1]。これは従来「初伝」「中伝」などと称していたものを改定したもので、履歴書の資格欄に書いてわかりやすいようにという学習者の便宜を目的としたものである。資格は対応する許状を全て取得すると得られる。

許状概要資格
入門割稽古・盆略点からはじめて薄茶・濃茶の基本の点前や炭手前など、世間一般が茶道と聞いて思い浮かべるほとんど全てを含んでいる初級
小習十六ヶ条の習い事と呼ばれるもので、特別な道具や状況に即した変化を学ぶことで茶道の基本を身につけることを目的としている
茶箱点茶箱を用いた裏千家独自の点前であり許状である。従来は「欄外」に区分されていた
茶通箱台子点前の準備段階として重要な道具の取り扱いを学ぶことを目的とした、いわゆる「四ヶ伝」中級
唐物
台天目
盆点
和巾点名物裂と中次を用いた古法で、裏千家独自の許状である。従来は「欄外」に区分されていた
行之行台子台子点前の基礎で、いわゆる「乱れ」上級
(助講師)
大円草大円盆を用いた裏千家独自の点前であり許状である
引次行之行台子までの許状の取次をする許可
真之行台子台子を用いた、いわゆる「奥儀」講師
大円真大円盆と真台子で行う格外の奥秘であり、裏千家独自の許状である
正引次真之行台子までの許状の取次をする許可
茶名利休以来の通字である「宗」を含んだ名前を名乗る許可であり、また正引次までの許状の取次ができる資格でもある専任講師
準教授茶名までの許状の取次をする許可助教授

奨励証・おしるし

茶道を学ぶ子どもたちが、卒業、卒園などの後に茶道を継続していくことを期待して交付(下付)している[2]。申請者は、申請校(園)の指導者として淡交会総本部に登録された、学校茶道正会員である必要がある。
高等学校以上の生徒・学生には許状の取得を奨励している[3]

奨励証 - 小中学生

おしるし - 幼稚園・保育園児

歴史

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成立から幕末まで

千家3代宗旦は、不審菴を三男江岑宗左に譲り、敷地内に新たに茶室を建てて隠居し、四男仙叟宗室と共に移り住んだ。このときの茶室は今日庵(一畳台目)、利休四畳半を再現した又隠、寒雲亭(八畳)であり、これらがすべて宗室に譲られたことにより裏千家が成立する。

4代仙叟宗室は慶安5年(1652年)に加賀前田家の当時すでに隠居であった前田利常に仕官し、百五十石と小松城三の丸の屋敷を与えられた。万治元年(1658年)に前田利常と元伯宗旦が相次いで没すると、裏千家の4代を継承し、寛文11年(1671年)に前田綱紀に茶頭として仕官して百五十石と金沢城下の味噌蔵町の屋敷を与えられた。以後、元禄元年(1688年)までは金沢と京都とを往復しながら精力的に活動し、元禄10年(1697年)に没した。

仙叟宗室の没後すぐに5代常叟宗室が加賀藩に仕官したが、ほどなく辞して伊予松山藩久松家に仕官する。以降、幕末に至るまで久松家に仕官しながら前田家とも交流を続けることになる。その後8代一燈宗室のときに徳島藩蜂須賀家にも出向いている。

8代又玄斎一燈は兄の表千家7代如心斎と共に千家の中興とされる。彼らは茶の湯が大衆化していく中で、新たな稽古の方法として七事式を制定するなどして千家の茶道を広めることに成功した。今日、三千家が茶道の代表格として語られるのは、流祖である千利休の高名だけでなく、この時期に広く各地の町人富裕層に普及したことも大きな要因となっている。

天明8年(1788年)正月晦日、京都で大火があり表裏両千家は完全に焼失している。このとき伝来の道具などは大徳寺に持ち出すことができたが、数々の茶室はすべて焼失してしまった。ほとんどは9代不見斎石翁によって翌年までに再建されている。
幕末・明治以後

11代玄々斎精中は10代認得斎柏叟の女婿として10歳のときに奥殿藩大給松平家から養子に入った人である。それまでの歴代が禅的消極的であったのに対し、茶道以外にも華道、香道、謡曲などに通じていて、茶箱点や立礼式の創始、和巾点の復興など、明朗で積極的な人であった。立礼式は明治5年(1872年)の博覧会に際して外国人を迎えるための創案であり、また同じ年に『茶道の源意』を著して茶道は遊芸とする風潮を批判するなど、幕末から明治の変動の時代に合わせた茶道の近代化の先駆として評価されている。

明治4年、京角倉家から養子に入ったのが、12代又?斎直叟である。


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