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装甲艦(そうこうかん)は、鉄ではなく鋼の装甲を施した軍艦を指す用語である。日本では甲鉄艦ともいい、明治時代にはより一般的な名称であった。装甲艦という種別は装甲の存在を表すものであり、艦の用途や艦形に関するものではない。そのため動力も手漕ぎ、帆走や蒸気機関による機走などさまざまなものが用いられ、船の大きさも数百トン程度から一万トンに及ぶものまで、実に様々であった。
なお、19世紀末以降20世紀前半の戦艦、装甲巡洋艦から発展した巡洋戦艦も、19世紀以来の定義では装甲艦であるが、今日ではこれらを別分類とし、初期の装甲艦のみを指す艦種名称として用いられることが多い。各国の装甲艦を描いたイラスト。左からフランス装甲艦「オセアン級」、イギリス装甲艦「デバステーション級」、イタリア装甲艦「イタリア級」、イギリス装甲艦「コリンウッド」、ドイツ装甲艦「ザクセン級」、フランス装甲艦「アミラル・デュプレ」。
装甲艦の歴史が望まれています。
黎明期詳細は「産業化以前の装甲艦」を参照
鉄の装甲を持った装甲艦の誕生以前、火砲や矢などの投射兵器に対する防御としては厚い木の板が用いられていた。戦列艦は分厚いチーク材などで船体を構成していた。大砲用着発信管式炸裂弾の実用化以前においては、大砲は攻城戦で城壁を壊す目的ならともかく、装甲貫通力に劣るぶどう弾・鎖弾などや、舷側からの発射には不向きの臼砲用時限信管式炸裂弾を除けば、多数の敵兵を殺戮する目的には適さず、そのため当時の艦船は小口径の大砲を大量に装備する事で補っており、そのため木材による防御でも十分であった。この当時、時限信管式炸裂弾を発射可能な臼砲を主兵装とする臼砲艦が存在したが、対地攻撃専用で対艦戦闘には向かなかった。日本の安宅船でも銃弾や矢を防ぐために盾板と呼ぶ厚い木の板をめぐらせたり、竹筒を並べた防御構造を有していたりした(なお#日本史における装甲艦も参照)。
しかし、ヨーロッパで大砲用砲弾として着発信管式高性能炸裂弾が実用化されると、従来の防御では不十分となった。クリミア戦争中の1853年に起きたシノープの海戦の結果、木造艦船に対しては大砲で投射される着発信管式炸裂弾が圧倒的な威力を発揮することが、ヨーロッパでは広く認識された。
他方、19世紀前半には、後述のジーメンス法などの製鉄技術の進歩により、装甲用の鋼板生産が可能となっていた。動力面で蒸気船、特に舷側武装の邪魔とならないスクリュー推進が実用化されていたことと合せて、軍艦に重い鉄の装甲を施すための技術的条件が揃っていた。
こうして1854年に、世界で最初の装甲艦がフランスで建造された。これはクリミア戦争にフランスが参戦するに当たって、主に陸上砲台との交戦を想定して設計したもので、110mmの鉄板と440mmのオーク材で強固に装甲されていたが、帆走と150馬力の蒸気機関による最高速力はわずか数ノットの浮き砲台だった。そのうちの「ラブ(Lave)」以下3隻は、1855年に黒海で実戦投入され、大きな成果を挙げた。その効果を見たイギリスも、同種の装甲浮砲台の建造を開始した。
19世紀1859年進水の装甲艦ラ・グロワール
現在、記録に残る世界初の航洋装甲艦は1859年にフランス海軍が進水させた機走可能な装甲艦ラ・グロワールである。「ラ・グロワール」は排水量5,635トン、163mm後装砲36門、舷側装甲120mmを持ち、速力13ノットを発揮する軍艦史上初の防御装甲を持ち、長距離航行可能な軍艦であった。この後すぐに1860年にイギリスの「ウォーリア」が進水し、この流れに続けと列強各国はこぞって機帆装甲艦を建造するようになった。
同じく19世紀後半、ロシア海軍など内海を活動範囲とする海軍でも、沿岸防備用として多くの装甲艦が用いられた。
初期には帆走装甲艦が主であったものの、アメリカ南北戦争で1861年に南軍が装甲艦「マナサス」を就役させて以降は、蒸気機関を備える機帆走装甲艦が多数を占めるようになった。航続距離が短くても構わない沿岸用の装甲艦には、帆走設備を廃止するものも現れた。
装甲艦への武装方式にも改良が行われていった。アメリカ連合国のバージニアに見られるように従来の戦列艦・フリゲートと同じ砲列甲板式の舷側砲が使用されていたが、次第に比較的少数の巨砲を搭載するようになり、ケースメート式の中央砲郭艦、バーベット上に配置する露砲塔艦(バーベット艦)、砲塔を有する砲塔艦(ターレット艦)などが開発されていった。砲塔艦の中には、艦中央付近に左右非対称に2基の砲塔を積んだものもあり、中央砲塔艦(清国海軍 定遠など)と呼ばれる。沿岸用の装甲艦では、砲塔艦の特殊な類型として、帆走を廃止して極端な低乾舷としたモニター艦が出現した。装甲艦同士のハンプトン・ローズ海戦で互いに装甲を貫通できなかったことは、装甲を打ち破るために巨砲搭載が進むきっかけとなった。また、火砲以外に衝角が装着され、リッサ海戦などの戦訓から重要視された。
20世紀以降装甲巡洋艦の様な外観に変貌したポルトガル海軍装甲艦「ヴァスコ・ダ・ガマ」オスマン帝国海軍装甲艦メスディイェ
戦列艦から戦艦への過渡期である20世紀初頭以降、全船体を鉄鋼で作る技術が確立されると、木造ないし鉄骨木皮の装甲艦は次第に廃れていった。日露戦争の時点ではすでに第一線からは退いており、第一次世界大戦が始まるころにはほぼ姿を消している。しかし、一部の国では近代化改装を施し、装甲巡洋艦や海防戦艦の替わりとして再就役させる例が見られ、特にポルトガルの装甲艦「ヴァスコ・ダ・ガマ」は1935年まで現役であった。