装甲師団
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機甲師団(きこうしだん)とは、戦車部隊を主力として諸兵科連合化された師団[1][2]陸上自衛隊のほか、アメリカイギリス陸軍の師団もこのように訳される一方[1]大日本帝国陸軍ソビエト連邦軍の師団は戦車師団、またドイツ陸軍の師団は装甲師団と訳されることが多い[2]
歴史

第一次世界大戦において戦車が登場したとき、師団における戦闘部隊の主力は歩兵部隊であり、戦車部隊はその支援部隊でしかなかった[2]イギリス陸軍においては、戦車軍団参謀長であったフラー大佐の提唱により、1919年には戦車を主体として装甲化された歩兵騎兵砲兵の諸兵科連合による攻撃が計画され、フォッシュ元帥の同意に基づきフランス陸軍もこれに歩調を合わせる計画であったが、休戦によってこれは実現しなかった[3]

大戦後、ヴァイマル共和国軍の再建を指導したハンス・フォン・ゼークトは大戦の戦訓を整理して軍の近代化を図っており、諸兵科連合を重視するとともに、1923年に発布した教範において戦車を主体とした攻撃構想を盛り込んだ[4]1934年より、交通兵監長ルッツ大将(ドイツ語版)のもと、幕僚長グデーリアン大佐によって装甲師団の編成が開始され、1935年10月には3個装甲師団が編成された[4]。この時点で、ソ連やイギリス、フランスでも旅団規模の機甲部隊は編成されていたが、師団レベルで戦車部隊が諸兵科連合の中心に据えられたのはこれが初めてのことであった[4]

このうちイギリスにおいては、1927年から試験装甲旅団を編成して2年間の実験演習を行っていたが、一般部隊を臨時に機械化した結果として運動性の異なる車両の混成となり、故障の多発と臨時編成部隊の弱点とが顕在化して、不評であった[3]。その後、ドイツ軍の装甲師団の編成が進む1938年には戦車旅団と2個機械化騎兵旅団を主体とする「機動師団」を編成し、翌年には「機甲師団」として再編した[3]。また1939年にはフランス陸軍でも機甲師団が創設され、ド・ゴール大佐が師団長となったが、これはあくまでも戦略守勢に立つ逆襲部隊と位置付けられていた[3]
特徴

戦車は、特に敵攻撃下で乗員が車内に入った状態では敵歩兵の肉薄攻撃に弱体であるという問題があり、味方歩兵との協同(歩戦協同)は、戦車戦術の基本中の基本となる[2]。また戦闘を継続するためには、例えば対戦車地雷を処理する工兵部隊や、敵砲兵の制圧にあたる砲兵部隊など、様々な部隊の支援が必要となる[2]

戦車を含む諸兵科連合部隊という点では、戦車部隊を増強された歩兵師団も戦車部隊を主力とする機甲師団も同様だが、歩兵師団の場合は歩兵が機動力の基準となるのに対して、機甲師団では戦車が機動力の基準となる点で大きく異なる[2]。しかしこの機動力を発揮するためには、戦車以外の部隊についても、少なくとも自動車化、可能であれば機械化させる必要がある[2]

自動車化とは、従来の馬匹にかえて自動車を導入することで、各種部隊の運動性を増大させることであり[1]、少なくとも路上移動では戦車部隊並みの速度を発揮できるようになる[2]。しかし通常の車輪によって走行する貨物自動車は不整地(オフロード)での行動能力が低く、いったん道路を外れると、戦車の機動についていけなくなる[2]。また装甲を持たない自動車は、砲兵による榴弾射撃や小火器の銃撃でも大きな損害を受けるため、自動車化歩兵は戦場のはるか手前で下車する必要があり、結局は戦場での移動は徒歩で行うことになる[2]。このことから、まもなく機動力強化のため無限軌道を導入して全装軌・半装軌式とするとともに、防御力も強化した装甲兵員輸送車が登場し、これに乗車する歩兵部隊は機械化歩兵と称されるようになった[2]

砲兵部隊においても、従来の牽引式火砲は牽引車から切り離して射撃陣地に進入し、砲撃準備を整えるまでにかなりの時間がかかり、また撤収時にも同様の手間を要する[2]。このため、展開が早い機甲戦に対応して効果的な火力支援を行うことが難しくなる[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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