袴田事件
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この項目では、1966年に静岡県清水市(現・静岡市清水区)で発生した強盗殺人事件と、その捜査や裁判が冤罪だとされる問題について説明しています。政党の除名処分に関する裁判については「共産党袴田事件」をご覧ください。

袴田事件
事件現場の位置座標
場所 日本
静岡県清水市横砂651番地の1[1]
(現: 静岡市清水区横砂東町[2][注 1]
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度02分40.79秒 東経138度30分14.429秒 / 北緯35.0446639度 東経138.50400806度 / 35.0446639; 138.50400806座標: 北緯35度02分40.79秒 東経138度30分14.429秒 / 北緯35.0446639度 東経138.50400806度 / 35.0446639; 138.50400806
日付1966年昭和41年)6月30日[1]
未明 (UTC+9)
概要味噌製造会社専務の一家4人が殺害され、金品を奪われた上に住宅に放火された。同社の従業員だった袴田巌が犯人とされて死刑確定したが、冤罪の可能性が強く指摘されている。
死亡者4人[1]
被害者味噌製造会社の専務男性A(当時41歳)ら一家4人[1][2]
犯人確定判決によると袴田巌とされるが、冤罪とみられる。
対処静岡県警が袴田を逮捕し、静岡地検が起訴
刑事訴訟袴田が犯人と認定され、死刑判決が確定したが、後に再審開始が確定[3]
管轄

静岡県警察(捜査一課・清水警察署[1]

静岡地方検察庁

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袴田事件(はかまたじけん[注 2])は、1966年昭和41年)6月30日日本静岡県清水市横砂[1](現: 静岡市清水区横砂東町[注 1][2])の民家で味噌製造会社の専務一家4人が殺害されて集金袋が奪われ、この民家が放火された強盗殺人放火事件の通称である[2]

被告人として起訴された袴田巌[注 3]に対し、1980年昭和55年)に死刑の有罪判決確定したが、袴田は冤罪を主張しており、死刑確定後の1981年(昭和56年)から2度の再審請求を行った[7]

2014年平成26年)3月、第2次再審請求審で静岡地裁が再審開始と、袴田の死刑および拘置の執行停止を決定し、袴田は釈放された[7]。その後、検察側が東京高裁即時抗告したところ、同高裁は2018年(平成30年)に再審開始決定を取り消し、再審請求を棄却する決定を出したが、同決定を不服とした弁護側が特別抗告したところ、最高裁2020年(令和2年)12月に同決定を取り消し、審理を同高裁に差し戻す決定を出した[7]

差し戻し後の審理で、東京高裁は2023年(令和5年)3月に静岡地裁の再審開始決定を支持(同決定に対する検察側の即時抗告を棄却)する決定を出し[8]東京高検がそれに対する特別抗告を断念したため、翌2024年にかけて死刑確定事件としては戦後5件目となる再審が行われた[3][9]。判決は9月26日の予定で、日本弁護士連合会が支援する再審事件である[10]

「袴田事件」という名称は1981年の再審請求後に広まった通称である[4]。第2次再審請求で再審決定が出され、上記の強盗殺人事件の実行犯が袴田だとする判決が否定されており、報道などでは「袴田事件」の名称を使わなかったり[3]、「通称・袴田事件」[4]「いわゆる『袴田事件』」[11][12][13]などの表記を用いる場合もある。静岡一家4人殺害事件[14][15][16]という名称も用いられる。
被害者・事件現場

事件で殺害された被害者は、男性A(当時41歳)と妻B(当時38歳)、次女C(当時17歳:静岡英和女学院2年生)[17]、長男D(当時14歳:市立袖師中学校3年生[注 4])の一家4人である[19]

事件現場は、静岡県清水市横砂651番地の1[注 1][1](現在の静岡市清水区横砂東町[2]:位置座標)に所在していた被害者A一家の住宅である[1]。同宅は旧東海道に面した民家で、事件後に建て替えられた[注 5][26][2]。その後、事件に巻き込まれずに生き残ったA・B夫婦の長女(C・D姉弟の姉)が暮らしていたが[27]、事件から50年が経過した2016年6月時点では既に空き家になっている[26]。一方、同宅に併設されていた土蔵は2023年3月時点でも残っており[28]、その外壁には焦げ跡の黒い煤が残されている[2]

Aの父親(事件当時68歳)、もしくはその先代は大正時代に個人商店として「橋本藤作(Aの父親の実名)商店」を創業し[注 6][18][29]、事件当時はAの父親が社長を務め、同社を合資会社としていた[18]。同社は当時、38人[18]ないし37人の従業員[注 7]を抱え[29]、Aの父親が社長を、長男であるAが専務を務め、味噌(商品名は「こがね味噌」)・醤油の製造・販売を行っていた[18]。なお、Aの父親は事件後も不自由な体で会社の再建に尽くしてきたが、事件の後処理に追われた過労で体調を崩し、同年9月6日に脳溢血のため、68歳で死亡している[30]。また、「橋本藤作商店」は事件後に吸収合併されて商号を「株式会社王こがね」に変更し、Aの長女が社長に就任した[31]

「橋本藤作商店」が製造していた「こがね味噌」は事件当時、関東東海地方に知られ、年産約1,200トンで、静岡県では第3位であった[18]。同社の味噌・醤油の年間取引額は1億円を超えており、経営は順調であった[18]。Aが経営していた味噌工場は、A宅から東海道本線の線路を挟んで南に約30メートルほどの場所に建っており[32]、袴田は事件当時、工場2階の寮に住んでいた[2]。工場は事件後しばらくして閉鎖され、跡地は2004年(平成16年)から遡って約20年前に宅地分譲された[23]
経過

1966年(昭和41年)

6月30日 - 2時10分ごろに現場の住宅から出火し、全焼
[18]。両隣の住宅もそれぞれ一部が焼けた[18]。焼跡からA・B・C・Dの計4人が他殺死体となって発見される[18]。事件当時、Aの父親はリウマチのため清水市内の厚生病院に入院しており、また彼の妻(Aの母親:当時61歳)と家事を手伝っていたAの長女(当時19歳)はそれぞれ工場横の隠居部屋[注 8]で寝ていたため、難を逃れている[18]静岡県警察の所轄警察署である清水警察署が調べたところ、4人の遺体にはいずれも刺し傷があり、前日に集金された現金約50万円のうち37万円が発見されなかった[注 9][18]。また現場からは凶器の一部と思われる短刀の鞘らしきものが発見されたため、同署は強盗殺人放火事件と断定して捜査本部を設置、県警本部捜査一課とともに捜査を開始した[18]。確定判決によれば、凶器は刃渡り12 cmのくり小刀のみとされている[35]

7月4日 - 清水署が、味噌製造工場および工場内従業員寮を捜索し、当時同社の従業員であった元プロボクサー袴田巖の部屋から極微量の血痕が付着したパジャマを押収。袴田が捜査線上に浮かんだ理由は、巨漢で柔道の有段者である専務と格闘できた人間として、元ボクサーである袴田の名が浮上したとされている。

8月18日 - 清水署の特捜本部が、袴田を一家4人殺害事件の被疑者として逮捕[36]。逮捕容疑には強盗殺人放火に加え、前年の1965年(昭和40年)8月ごろから4回にわたって工場の製品である4 kg入り味噌1樽や500 g入りの金山寺味噌45袋(計2,695円相当)を盗み、清水市内の旅館に売っていたとする窃盗の余罪も含まれている[36]

8月19日 - 取調べ(3回 計10時間30分)

8月20日 - 取調べ(3回 計7時間23分)同日午後、特捜本部は袴田を殺人、放火、窃盗容疑で静岡地方検察庁送検した[37]

8月21日 - 取調べ(2回 計6時間5分)

8月22日 - 取調べ(6回 計12時間)

8月23日 - 取調べ(3回 計12時間50分)

8月24日 - 取調べ(3回 計12時間7分)

8月25日 - 取調べ(4回 計12時間7分)

8月26日 - 取調べ(3回 計12時間26分)

8月27日 - 取調べ(3回 計13時間17分)

8月28日 - 取調べ(3回 計12時間32分)

8月29日 - 取調べ(5回 計7時間19分)

8月30日 - 取調べ(4回 計12時間47分)

8月31日 - 取調べ(3回 計13時間18分)

9月1日 - 取調べ(3回 計13時間18分)

9月2日 - 取調べ(4回 計9時間15分)

9月3日 - 取調べ(2回 計9時間50分)

9月4日 - 取調べ(3回 計16時間20分)

9月5日 - 取調べ(3回 計12時間50分)

9月6日 - 取調べ(3回 計14時間40分)。犯行を頑強に否認していた袴田が勾留期限3日前の同日、犯行を自白[38][39]。自供内容は、前日(6月29日)夕方に犯行を決意して従業員寮で時間を待ち、30日1時20分ごろ、パジャマの上に工場内の雨合羽を着て、工場から見て東海道線の向こうにあったA宅に侵入したが、寝ていたAに気づかれて大声を出されたため、格闘の末に持っていたくり小刀で刺殺した。その後、Aの大声で目を覚ましたB・C・Dも相次いで殺害し、「焼いてしまえば跡が残らない」と考え、1人1人に油をかけた上でマッチを使って点火した――というものである[39]


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