公的医療保険制度(こうてきいりょうほけんせいど、Health Insurance)とは、日本の「被用者保険」、「国民健康保険」、「後期高齢者医療制度」の3つの総称[1]。
日本のこの制度下においては、医療機関の窓口で払う医療費は原則3割となっている[1][2][3]。 日本では、生活保護の受給者などの極一部を除く日本国内に住所を有する全国民、および1年以上の在留資格がある日本の外国人[* 1]は何らかの形で公的医療保険に加入するように定められている(≠強制保険)。 1920年代以前の日本における医療保険と生命保険は、民間企業労働者には民間共済組合 国民健康保険制度にて“国民皆保険”が達成されたのは、岸信介内閣における1958年12月23日の国民健康保険法の全面改正以降からである[5]。(1961年(昭和36年)) 老人医療費無料化(高齢者医療費無償化)などの左派ポピュリズム政策による財政規律を無視した美濃部亮吉都政(1967年-1979年)など日本社会党と日本共産党の支援を受けた候補が自民党支援候補に都市部で勝つなど革新自治体の選挙での躍進した。1970年代には東京・大阪・京都・横浜などで社共共闘の知事が誕生し、次々と無償化政策を行った。 1972年には2県を除いた都道府県で高齢者医療費無償化が導入された。反対してきた日本政府・自民党も全国(残り2県)での導入を求める人々の声に圧迫された。日本が西側諸国でいることに批判的な革新派が地方自治体で台頭してきたことに危機感を覚えた田中角栄首相は、旧大蔵省(現財務省)などの財政上継続不可能との反対論を退けて老人福祉法を改正し、1973年に老人医療費支給制度(全国の高齢者医療費無料化)を導入した。70歳以上の老人医療費無料化制度を国家的に行った以降から、国家や地方自治体財政における医療費や社会的入院が爆発的増加し、高齢者の加入者が多い国民健康保険の財政を窮迫した。革新自治体も「減税しながら財政支出を増やす相反する政策」を繰り返したことで財政赤字となった[6][7][8][9][10]。 高齢者医療費無償化などマルクス経済学者美濃部亮吉都知事による1967年からの3期都政によって、東京都の財政は巨額の累積赤字に苦しむ状況になっていた。しかし、1979年に美濃部亮吉引退後の都知事選で自民党などの推薦を受け、美濃部革新都政を「バラマキ行政」と批判していた「元官房副長官」「内務官僚のエース」である鈴木俊一都知事が当選。財政破綻寸前だった「革新の美濃部都政」からの政策転換し、改革実行による財政再建に取り組み、都知事一期目で都政の財政赤字を解消させた。他にも幹部ポストの削減や都庁の新宿移転などを行った[11][12][13][14]。
概要
戦前
国民健康保険法の改正による国民皆保険以後
革新自治体における高齢者医療費無料化以降「社共共闘」も参照