仲帝 袁術
仲
皇帝
王朝仲
在位期間197年 - 199年
都城寿春
姓・諱袁術
字公路
生年永寿元年(155年)
没年建安4年6月(199年7月)
父袁逢
陵墓新陵
※『資治通鑑音注
袁 術(えん じゅつ/すい[1][2][3][信頼性要検証].mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Yuan Shu、永寿元年(155年)- 建安4年6月(199年7月)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は公路。豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。父は袁逢(司空)。同母兄は袁基(太僕)。従兄(または異母兄とも)は袁紹。叔父は袁隗(太傅)。
当初は官界にあったが、董卓による動乱の中で群雄の1人として名乗りを上げ、反董卓連合の崩壊後は孫堅らの支持を受けて一族の袁紹と抗争を繰り広げた。一時は曹操に敗れ揚州に追いやられたが、孫策らの力により揚州を実効支配し勢力圏を再構築。皇帝を称し、国号を「仲」としたが、孫策らの離反や曹操の攻撃により数年で瓦解し、失意の内に没した。
袁氏は帝舜の血族である陳の宣公時代の大夫の轅濤塗の末裔と伝わる。 青年期は侠人として知られ、仲間達と放蕩な生活を行っていたが、後に改心した。同族の袁紹が自身より声望が高いことを妬み、袁紹の出自の低さをたびたび持ち出して中傷、さらに袁紹と交際する何?らを憎悪した。 孝廉に推挙され郎中に就任、官は河南尹から折衝校尉、虎賁中郎将に至った。 中平6年(189年)の霊帝崩御後、大将軍の何進による宦官皆殺し計画に袁紹や曹操と共に参加。何進が十常侍により暗殺されると、袁隗や袁紹と共に宮中に乱入し、宦官数千名を誅殺した。 董卓の入京後に後将軍へ任じられた。当初は袁隗・袁基ら袁家一門と共に董卓政権に参加していたため、曹操が洛陽から逃亡した後、曹操の夫人卞氏に曹操の情報を伝えに行ったりしている。後に害が及ぶのを怖れて荊州の南陽へ逃れた。ちょうど反董卓のために挙兵し北上してきた長沙太守の孫堅が南陽太守の張咨 これより以前、袁紹は韓馥と共に、董卓により擁立された献帝に対抗すべく、幽州牧の劉虞の擁立を計画したが、袁術は内心では漢室の存続そのものに疑問を持っていたため、これに強く反対したという(『呉書』)。 劉虞は献帝への忠誠の証を立てるために長安に使者を送り、献帝の側でもまた劉虞に援軍を求めるため、劉和を劉虞への使者として長安を脱出させた。袁術はこの話を聞き、劉和を強引に引きとめ、内心では劉虞の軍勢を奪い取るために劉和を脅迫して劉虞への手紙を書かせた。劉虞はさっそく軍勢を提供した。公孫?は袁術の意図に感づき、劉虞に派兵を取りやめるよう諌めたが、劉虞に聞き入れられなかったため、自身も袁術の歓心を買うために従弟の公孫越に率いさせた軍勢を袁術に提供した(『三国志』魏志「公孫?伝」)。 その後、袁術が孫堅を豫州刺史に任命したことを無視する形で、袁紹は周昂(あるいは周?
生涯
御曹司から諸侯へ
二大勢力
さらに袁術は荊州牧の劉表と不仲になると、袁紹に一族を殺された恨みを持つ公孫?と手を結び袁紹と敵対させた。これに対抗して袁紹は劉表と手を結び味方に取り込んだ。こうして袁術と袁紹は対立することとなった。192年群雄割拠図
初平2年(191年)から同3年(192年)にかけて、袁術は孫堅に命じて劉表の攻略を計画するが失敗、孫堅は敗死した(襄陽の戦い)。さらに袁術の要請により袁紹・曹操を攻撃した公孫?・陶謙も敗れた。
初平4年(193年)、袁術は自ら南陽を出発し、?州の陳留の匡亭に進出して曹操への攻撃を行うが曹操と袁紹と劉表の連合軍に大敗、劉表に背後を絶たれ、本拠地の南陽郡を捨て、揚州へと逃走した。州刺史の陳温の死後の混乱につけこみ、揚州を奪取し寿春を拠点とした[5]。正式な揚州刺史の後任である劉?は袁術を恐れて曲阿に駐屯せざるをえなかった。
李?は長安に入ると、袁術と同盟を結ぶため、袁術を左将軍・陽?侯に任命し節を与えた。このとき、袁術は使者の馬日?を抑留し、部下の孫策や朱治らに無理矢理官職を与えたという。 徐州の陶謙は袁術に与していたが、袁術が曹操に大敗すると、袁術の拠っていた豫州の刺史に劉備を派遣するなど自立する姿勢を見せるようになっていた。
徐州侵攻