袁山松
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袁 山松(えん さんしょう、生年不詳 - 401年)は、中国東晋官僚歴史家音楽家本貫陳郡陽夏県
経歴

袁方平(袁喬の子)の子として生まれた。若くして博学で文才があった。また音楽を得意とし、旧歌の「行路難」の曲を好んで、酔ってはこれを好き勝手に歌うと、聴く者は涙を流さないことがないと言われた。ときに羊曇が唱楽を得意とし、桓伊は挽歌ができ、山松が「行路難」でこれに次いだため、当時の人はかれらを「三絶」と呼んだ。また張湛が葬儀場の前に松や柏を植えるのを好み、山松は出遊のたびごとに挽歌を側近に作らせるのを好んだため、当時の人は「湛は屋下に屍をならべ、山松は道上にを行う」と評した。

山松は謝混の娘に求婚して妻に迎えた。顕位を歴任して、呉国内史となった。孫恩の乱のとき、山松は滬?を守備していた。401年隆安5年)5月、滬?の城を反乱軍に落とされて殺害された。著書に『後漢書』100巻があった。
伝記資料

晋書』巻83 列伝第53


更新日時:2018年11月2日(金)04:32
取得日時:2019/07/14 22:34


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