表現の自主規制
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表現の自主規制(ひょうげんのじしゅきせい)とは、表現の自由が「絶対的で無制限」なものではないという考え方より、表現者が自ら斟酌して自らの表現に制限を課すことをいう。単に「自主規制」と呼ばれ、これが日常慣例化するとタブーになることがある。

具体的に問題となるのは不特定多数の大衆を対象とした表現であることが多いため、一般的に、著者、出版社作曲家作詞家レコード会社放送局などが主体的に判断して言葉の置きかえや著作物の発表を取り止めるなどの行為を指すことが多い。
概要

基本的人権である表現の自由は、経済的自由権などに比べて優位にあるものとされる[1]。これは、民主主義社会の成立には表現の自由の保証が不可欠であると考えられているからである[2]。ただし、表現の自由は絶対的で無制限なものではなく、表現行為によって人の名誉やプライバシーを侵害することは許されないものであり、他の人権と衝突する場合、一定の制限を受けざるを得ない[2]。この点から行われるものが表現の自主規制である。

基本的に「表現の自由」と「表現の責任」は一体のものであり、表現行為の責任は表現者に帰属する。従って、表現行為が他の人権を侵害するかどうかの斟酌によって行われるのが表現の自主規制で、その斟酌を行う主体は表現者である。表現の自主規制はマスコミなどに限らず、表現の自由が保証された民主主義社会においては、個人対個人のレベルより日常的に広く行われている。しかし一方で、具体的に表現のあるべき姿については多くの考え方が存在し、一義的に示すことは到底不可能である[3]
マスコミの現状
アメリカ

アメリカでは文化的経緯によりマスコミの規制ではなく、著者など個々の表現者の責任における自律が一般的であるの。

アメリカでは管理者はよほどのこと(明白かつ現在の危険)がない限り関与せず、被害者からの法的根拠を示した請求がされるまで削除しない、また発信者に直接、被害者から損害賠償請求などがされる。
日本

マスコミも利潤を追求する企業であり、読者・視聴者からの抗議などで商品である出版物などの売り上げが落ちる、あるいは差別表現が含まれた出版物の回収などで損害が出るといったことは、最も恐ろしい[4]ものである。

日本の場合、個々の表現者の責任よりも、マスコミの直接責任が問われることが多いことから、マスコミが自主基準をもって規制を行うのが一般的である。これは太平洋戦争後、民主化された日本において現実にマスコミに対する直接の法的な表現規制の動きが表面化したことが少なからずあったことによる[2]

日本のマスコミは、表現の自由が保証されている諸国の中で特異な存在ともなっている。これを好ましくないとする立場から、マスコミの事なかれ主義と批判されることがある。特に1965年の「博多駅テレビフィルム提出命令事件」において日本の最高裁判所は利益衡量基準(表現を認めた場合と規制した場合とのそれぞれの社会的利益を比較衡量して判断するもの)により判決を下し[5]、以降の裁判でも利益衡量基準が用い続けられており、従って日本のマスコミの場合、その表現が他の人権などと衝突して法廷闘争に至ると勝訴の見込みはまずないことから、表現者よりもマスコミによる規制のほうが定着している[6]

日本のマスコミの事なかれ主義は深刻な事態を招くことがある。利益衡量基準を恐れるあまり、権力者・実力者の意見・発言などをそのまま真実としてしまう(御用報道、大本営発表)。事実、過去の事件事故で裏付け取材をすることなく、警察発表そのままに報道した結果、著しく人権を侵害する結果となった例は数知れない[7]。また最近の例では、東京電力福島第一原子力発電所事故によって生じた退避エリアへの住民の再居住について、政府関係者の10年あるいは20年先になるとの見解を、放送各局は一見解としてではなく事実として報道した。ところがこれは専門家による検討・考察に基づかない単なる憶測であったことが間もなく分かり、訂正報道することになった。数万人の被災者と関係者は、いたずらに不安をいだき、混乱させられた。

日本の放送局の規制例として、身体的障害を表現する用語を「放送禁止用語」などとして「○○が不自由な人」と言い換えるのが一般的だが、これを例えば、過去の文学作品にまであてはめて改変しようとする行為は、過ぎたもの(言葉狩り)として批判されることがある。今日では、このような文学作品には、末尾などに「差別用語とされる語も含むが、当時の状況を鑑みまた芸術作品であることに配慮して原文のままとした。」などと記されることも多い。

受け手の立場や考え方などにより、不適切とも適切ともなるひとつひとつの表現を直接の表現者ではない第三者が判断して規制することは非常に難しい。例えば漫画であるが、小学館で『週刊ポスト』編集長代理などを務めた堀田貢得は、「漫画は『ユーモア』と『毒』が作品の味付けに不可欠といわれているが、差別表現で問題を起こした作品の『ユーモア』や『毒』は許されないもので、発行部数の膨大さからいっても社会的影響は大きく、責任も大きいものである。」と指摘、「したがって、表現者には才能やセンスも重要だが、21世紀の表現者には人権感覚が強く求められる。」と主張している。しかしまた堀田は「人権感覚は運動団体の関係者ですら、差別のカテゴリーが異なると『自信がない』と述懐するほど難しい問題で、出版業界でも人権感覚を研鑽するために社内啓発に努力しているが、なかなか理解されないのだという。あえて言えば、実際に直面しないと理解できないのではないか。」と本音も述べている[8]

特筆すべきは、日本放送協会(NHK)による、2010年に明らかになった相撲界の野球賭博問題を受けた大相撲名古屋場所の放送中止である。ラジオも含め、テレビで大相撲が放送されないというのは初めてのことであり、日本の放送業界全体がいわば「利益衡量」基準による「自主規制の決定過程」まで視聴者(国民)に示した。

すなわちNHKは直近の大相撲名古屋場所について、視聴者からの反対意見の多いことを主な理由に、名古屋場所が開催されるとしても放送の中止の検討を行っていることを公表した。これについて民間放送(民放)各社は、NHKが日本相撲協会に支払っている放送権料は視聴者の受信料であり、多くの反対意見に逆らって放送することは、すなわち視聴者の利益を損なうものになると解説した。

そして鳥越俊太郎は、「反対意見」の信憑性について触れ、「声なき声、つまりこの場合の「賛成意見」は寄せられないものであるから、世論実態はどうなのかをよく調査・検討して放送中止の判断をすべきである。また賛成意見に応えるために、中止したとしても、勝敗結果などはダイジェストで放送すべきである。」と述べ、結果、NHKの決定もそうなったことである。現在進行中の案件に係る放送局の自主規制決定過程が、リアルタイムにここまで明らかにされたのは過去、およそ例がない。
歴史

ヨーロッパにはもともと卑猥・粗雑な言葉や表現の公共の場での使用はタブーとする文化的概念が古くからあるため、こういった言葉や表現の使用は、公共の場における使用のみならず、出版物などについても法的に制限されてきた経緯がある。上位となる文化的概念や直接的な法的規制が存在するため、例えば差別用語であれば、それぞれの差別用語の使用をいちいち自主規制で禁止するという考え方そのものが存在しない。すなわち表現行為の責任は全て表現者に帰属するという考え方が古くからあり、直接の表現者ではないマスコミなどが、その主観的な判断で表現者の表現行為を規制しようとすることは珍しい。

日本での表現の自主規制は、国語辞典『言海』の一項目「かははぎ」の修正にみられるように、水平社運動が盛んだった太平洋戦争前から行われていたことが確認できる[9]
法規制に関わる自主規制
日本

日本ではわいせつ物頒布等の罪(刑法175条)により猥褻な文章・図画・電磁的記録(データ)の頒布や陳列は、有償・無償を問わず、禁止されている。この猥褻の概念は固定されておらず、チャタレー事件[10]四畳半襖の下張事件[11]といった過去の判例を元にその時代の社会通念に照らして(最終的には裁判所により)判断されるものとなっている。このため、アダルトビデオ・成人向け漫画・アダルトゲームといった成人向けのコンテンツは猥褻だと判断されないように倫理審査団体(日本コンテンツ審査センターコンピュータソフトウェア倫理機構など)がモザイク処理をかける自主規制を行っているが、当記事の他の自主規制と異なり、従わない場合は法令違反とされる可能性がある[12]

チャタレー事件の原因となった文学作品のチャタレイ夫人の恋人が後年になり完全版が発行されたり、わいせつ物として禁止されていたヘアヌードが解禁されるなど時代によって猥褻の概念に変化はあるものの、過去から2020年現在に至るまで、無修正(もしくはそれに近い)の性器を表現する事は、学術・医学目的を除いて、違法とされており[13]、修正が無い、あるいは不十分だという理由で逮捕される事例がある[14]


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