表千家
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「不審庵」はこの項目へ転送されています。太宰治の小説については「不審庵 (小説)」をご覧ください。

表千家
独楽紋
本姓称・清和源氏義国流
家祖千利休
種別地下人茶道家
平民
出身地和泉国
主な根拠地山城国
京都府
著名な人物千利休
江岑宗佐(4代)
天然宗左(7代)
支流、分家裏千家地下人
武者小路千家地下人
凡例 / Category:日本の氏族

表千家(おもてせんけ)は、茶道流派の一つ。千利休を祖とする千家の家督を継いだ千家流茶道の本家であり、宗家は京都市上京区小川通寺之内通上るにある。

表千家を象徴する茶室不審菴(ふしんあん)の号の由来は「不審花開今日春」の語に由来しており、財団法人不審菴が管理している。

現在の家元は、千利休から数えて、15代目の猶有斎(ゆうゆうさい)千宗左(せんそうさ)である。代々の家元は紀州藩主である紀州徳川家御三家)の茶頭として格式を誇り、紀州徳川家と強いつながりがあった三井家とも縁があった。(後述)

本家の表千家に対して分家の裏千家の名は、今日庵が表通りの不審菴の裏にあることに由来する。
歴史
成立

茶の湯の大成者である千利休(せんのりきゅう)の没後、千家は2代・千少庵(せんしょうあん)、3代・千宗旦(せんそうたん)と続いた。3代宗旦の三男である江岑宗左は、宗旦の隠居に伴い継嗣として不審菴を継承した。宗左は千家の直系を継いだわけであるが、宗旦は屋敷の裏に今日庵を建てて隠居所とした。宗旦の死後、今日庵を四男の仙叟宗室が受け継いで独立し、裏千家となった。また次男の千宗守が養子先から出戻ってきて別に一家を起こし武者小路千家となった。こうして表・裏・武者小路の三千家が成立した。

4代江岑宗左は、寛永19年(1642年)、茶の湯に造詣の深かった紀州藩初代藩主徳川頼宣の招きで紀州徳川家に仕えた。以後明治に至るまで表千家の歴代家元は紀州徳川家の茶頭として仕え、中級武士並の二百石の禄を受けた。また江岑は新院後西院より宸翰を拝領したり、東福門院より御作の香合を拝領したりと、御所公卿らとの交流も深かった。

紀州徳川家の歴代藩主の中には茶の湯に興味をもつ者も少なくなく、6代覚々斎の時には紀州藩4代藩主から8代将軍になった徳川吉宗から、茶碗(桑原茶碗)を拝領した。後に9代了々斎の時には「数寄の殿様」と呼ばれ風雅を愛した徳川治宝の庇護を受けた。治宝は利休茶道の皆伝を受けるほど茶道に通じており、了々斎の晩年には治宝を家元とし茶事を催していた。それゆえ、治宝は幼くして了々斎の跡を継いだ10代吸江斎に了々斎から預かっていた皆伝を授ける形となった。現在の表千家表門は、治宝の不審菴への御成りにあたり紀州徳川家が建てたものである。ちなみに紀州で表千家の茶道は藩主から庶民にまで広がり、現在でも表千家の茶道が盛んである。このように表千家は紀州徳川家から格別の待遇を受けていた。現在でも、和歌山城下の和歌山市三木町堀詰橋南側には、「紀州藩表千家屋敷跡」の碑が建っており、往時を偲ばせる。江岑の後を継いだ5代随流斎は、縁戚の久田家から養子に迎えており、江岑から見ると甥にあたる。随流斎は、江岑の庶子である友流斎三浦宗巴を後嗣としていたが早世したため、実家の久田家から兄宗全の子勘太郎を養子に迎え、のちの6代覚々斎となった。
元禄から化政にかけて

江戸期に表千家が果した役割として茶道史上特筆すべきは、6代覚々斎以降の、町方への普及である。元禄期を頂点とする江戸中期は経済の実権を町人が握り、千家は三井家の当主八郎右衛門など富裕町人を大量に門弟として受け入れた。そのため、従来の指導方法・組織では対応できなくなり新たな指導方法・組織が生み出されるとともに、町人文化の影響を受けて自由闊達な気風が吹き込まれた新たな茶風へと変容した。特に7代如心斎は、実弟である裏千家8代一燈宗室や、高弟である川上不白らと共に時代に即した茶風を創り出した家元として名高く千家中興と称される。

新たな組織とは、現在の芸事一般に見られる家元制度である。家元である千家当主が直属の門弟に稽古をつけてその分の教授料を取る。直属の門弟は自分の弟子に教えて教授料を取りその一部を家元に上納する。その弟子は更に自分の弟子に稽古をつけ、授業料を受け取りその一部を自分の師匠に上納する仕組みで、家元を頂点としたピラミッド型組織である。また家元は原則として許状(ゆるしじょう・おゆるし)の発行権を独占しており、中間の師匠は自分より上位の師匠、さらに家元へと許状の発行申請を取次ぎ、御礼(申請のための費用)も上納する義務がある。これによって家元を権威付け、分派独立を防ぐと同時に組織の経済的基盤を確立することができたといえる。

また、門弟数の増加に対応する新たな指導方法として七事式が制定された。如心斎、一燈宗室、川上不白、無学宗衍、堀内宗心らは、利休時代から存在していた茶カフキ、廻り炭、廻り花に加え、花月、且座、一二三(いちにさん)、員茶(数茶、かずちゃ)を考案し、碧巖録の七事随身の語からとって、七事式と名付けた。基本的に五人一組となって各人それぞれ役割が割り当てられ、五人が一度に稽古できるというものである。遊戯性があり大流行した。そのために花月楼とよばれる八畳敷きに一間床の広間が好まれ、江戸をはじめ各地に写しの茶室が造られた。

この7代如心斎らが行った組織改革は後世に千家流茶道を伝える基盤整備である一方で、単なる指導方法の変更のみならず、小規模空間で小人数をもてなすわび茶の世界を大きく変えていくことになる。如心斎の高弟だった川上不白は、江戸へ赴き武家社会に千家流をひろめ、のち江戸千家などの流祖となった。

8代?啄斎のとき天明8年(1788年)の大火により、表裏両千家は伝来の道具のみを残して数々の茶室はすべて焼失してしまった。しかし翌年までに速やかに再建されて、利休居士二百回忌の茶事を盛大に催している。こうした復興が可能だったのも如心斎らによる家元制度の整備によるところが大きいと考えられる。

ちなみに三井家は紀州藩領であった伊勢松坂が一族のルーツであり、それが縁で紀州徳川家とは強いつながりがあった。三井家の惣領の家柄である三井北家6代三井高祐が紀州和歌山城下(西浜御殿)に招かれた際には、高祐が手造りした茶碗に治宝が亀の絵を描くなどしている。


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