衣笠祥雄
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衣笠 祥雄引退後の野球解説者時代(2011年)
基本情報
国籍 日本
出身地京都府京都市東山区
生年月日 (1947-01-18) 1947年1月18日
没年月日 (2018-04-23) 2018年4月23日(71歳没)
身長
体重175 cm
73 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手一塁手捕手
プロ入り1965年
初出場1965年5月16日
最終出場1987年10月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


平安高等学校

広島カープ
広島東洋カープ
(1965 - 1987)

コーチ歴


広島東洋カープ (1984 - 1987)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1987年
選出方法競技者表彰
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衣笠 祥雄(きぬがさ さちお、1947年昭和22年)1月18日 - 2018年平成30年)4月23日[1])は、日本プロ野球選手内野手)。引退後は野球解説者野球評論家タレント京都府京都市東山区馬町出身[2][3][注 1]。本名同じ[4]。メディアにおける愛称は「鉄人」、先輩や同い年からの愛称は「キヌ」もしくは「サチ」、後輩からは「キヌさん」と呼ばれる事が多かった。国民栄誉賞受賞者。息子は元俳優の衣笠友章[5]

連続試合出場記録日本記録・世界2位記録、連続フルイニング出場歴代4位、通算安打数歴代5位(通算2543安打は福本豊とタイ)、通算本塁打数歴代7位(通算504本は張本勲とタイ)の記録保持者。赤ヘル打線の主砲として山本浩二と共に1970年代後半から1980年代の広島東洋カープ黄金時代を築き上げる原動力となった選手の一人である[6][7]
経歴.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2020年11月)

プロ入り前

進駐軍の兵士として日本に駐留中だったアフリカ系アメリカ人の父親と、日本人の母親の間に生まれた(詳細は後述)。「僕がハーフでなかったら、ということは考えたくないことですが、もしそうでなかったらプロ野球選手になれたかどうか分からない。なりたいとは思ったでしょうけどね」と自身も語っているとおり、野球との出合いは、その出自と無関係ではない[8]

京都市立洛東中学校入学時には、柔道部に入りたかったが、中学に柔道部がなかったため、やむなく野球部に入部した[9]

その後、平安高等学校へ進学。高校では、捕手として同期のエース植木一智とバッテリーを組み1964年の春夏の甲子園大会へ出場した。春の選抜は準々決勝に進むが、エース島村聖(慶大-日本鋼管)を擁する土佐高に惜敗。夏の選手権は同じく準々決勝で、この大会に優勝した高知高の光内数喜(芝工大-鐘淵化学)に抑えられ敗退。他の高校同期に捕手、外野手の梅村好彦がいる。
現役時代

1965年広島カープに入団。同年は捕手として6試合に先発マスクを被るが、白石勝巳監督の方針で一塁手に転向。1967年は10月から先発に名を連ね、4試合で3番打者として起用される。

1968年は開幕から5番打者に抜擢され一軍に定着。同年は初の規定打席(14位、打率.276)に達し、21本塁打を放った。1970年は外野手も兼ね、24試合で4番打者に座る。そして、10月19日対読売ジャイアンツ戦から連続試合出場の記録が始まる。

1971年は打率.285ながら長嶋茂雄(打率.320)に次ぐベストテン2位に喰い込み、同年6月10日の対巨人戦(後楽園球場)では8回に堀内恒夫から2点本塁打を放ち、当時のプロ野球タイの5試合連続本塁打を記録した[10]

1972年は打率.295(4位)、29本塁打(3位)、99打点王貞治に次ぐ2位)とリーグを代表する打者に成長。同年7月1日の対ヤクルトアトムズ戦(明治神宮野球場)では2回に浅野啓司から満塁本塁打、4回に会田照夫から3点本塁打を放ち、1試合7打点を記録した[11]。1974年までの背番号28から「鉄人横山光輝漫画鉄人28号』より)」の愛称で親しまれており、またその愛称が示す通り、野球選手の中でも小柄な体格でありながら飛び抜けて体が頑丈でもあった。負傷しても休まず試合に出場することも多く、その頑丈さで大相撲の幕内力士青葉城と並び称されたこともある。

1974年、7月14日の対ヤクルトスワローズ戦(広島市民球場)では2点を追う9回二死一、二塁の打席で浅野啓司から逆転サヨナラ3点本塁打を放った[12]


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