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衝角(しょうかく、英語: ram)は、軍船の船首水線下に取り付けられる体当たり攻撃用の固定武装である。 船首水線下前方に大きく突き出た角の形状をしており、軍船同士の接近戦において敵船の側面に突撃して、推進力を生み出す櫂の列を破壊して機動性を奪ったり、その船腹を突き破って水線下に浸水させ、行動不能化ないし撃沈することを目的とする。突き破った衝角を引き抜くと敵船は船腹の破孔から大浸水が起きる。 こうした用法のため、木製船の時代では衝角は船体の他の部分とは別に強力な素材で製作され、本格的な軍船では金属が、また簡易なものでは先端を尖らせた丸太が用いられた。副次的効果として船首での造波抵抗を低減する後のバルバス・バウに類する効果があった。
概要
歴史
古代から近世ハイファ地区沖で発見された、紀元前2世紀の古代ギリシア軍船の青銅製衝角
(イスラエル国立海事博物館
歴史的には、紀元前の古代ギリシアなどの軍船においてすでに衝角が装備されていた。当時はまだ火器がなく、海戦といえば衝角で敵船の運動能力を奪ったり撃沈するのが中心であった。弓矢やバリスタ、カタパルト等での射合い、あるいは軍船同士が接近して敵船に乗り移り白兵戦を行う方法もあったが、衝角戦が最も一般的であった。
それ以外の国においても、衝角を装備した、あるいは衝角を装備しない軍船であっても、体当たりは海戦の主要な戦法であった。古代から帆船は広く普及していたものの、風次第で航行の自由度が大きく制限されるため、軍船では櫓や櫂を用いての人力動力が中心であった。日本では、和船は構造強度の点で外部からの衝撃に弱かったため、体当たり戦法は用いられなかった。
近世になって大砲が軍艦に搭載されると、衝角戦は主流ではなくなった。これは大砲を多数装備する事と引き替えに、櫓や櫂(およびそれを動かす人員)の装備が制限され、軍船においても帆船が主流となり、衝角戦が実用性を失ったからである。例えばアルマダの海戦(1588年)では、衝角戦を仕掛けようとするスペイン海軍艦隊に対してイギリス海軍艦隊は逃げ回り、結果的に勝利をものにしている。
とはいえ、艦載砲の射程はまだ短く、また威力不足で船体を完全破壊する事は不可能であった。よって自立航行が不可能なほどの損害を与える事や、甲板上の兵士を死傷させ戦闘力を失わせるのが当時の艦砲の主目的であったのだが、まだ榴弾が実用化されておらず砲弾は非炸裂性であったため、小型の大砲を大量に装備して物量で補うしかなかった。そのため接近戦が主流であり、接舷して海兵隊を乗り込ませて白兵戦で決着をつけることがしばしば行われる状況であり、衝角は船体そのものへの破壊戦術としての効果を期待されて装備され続けた。
金属製衝角を装備した、ギリシャの復元三段櫂船「オリンピアス」レパントの海戦(1571年)。当時の海戦では衝角戦術が用いられた。
近代南北戦争のハンプトン・ローズ海戦で、南軍装甲艦「バージニア」(右)に衝角攻撃を受けて沈みゆく北軍軍艦「カンバーランド」(1862年3月8日)英水雷衝角艦「ポリフィーマス(英語版)」(在役1882年?1903年)の衝角。魚雷発射管を組み込んだ変わり種。
近代になって大砲の威力が飛躍的に向上すると、従来の戦列艦のような小型砲を大量に搭載した艦は、砲の威力が小さい上に防御上の弱点を抱え、廃れる事となった。19世紀後半には艦載砲の数を減らして、木造軍艦に鉄板で装甲が施されるようになり、装甲艦が誕生する。
装甲艦の普及により、再び艦載砲の貫通力や命中精度がこれを撃ち抜くのに不足とされ、かつ戦列艦の時代よりも艦載砲の数が減少しているため、衝角戦が再び脚光を浴びた。リッサ海戦(1866年)やイキケの海戦(1879年)がこの例である。もうひとつの理由として、同時期において蒸気機関の実用がなされ、艦船においても蒸気推進が主流となったからである。風により航行が制限される帆船と異なり、航行の自由度が高まり、かつ速度性能も向上したため、当然の帰結として衝角戦の実用性、および効果の度合いも高まったと考えられた。