衛門府
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「右衛門佐」はこの項目へ転送されています。江戸時代前期の大奥女中については「右衛門佐局」をご覧ください。

衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名金吾、監門、監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。

※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。
前期

靫負の伝統を受け継ぐ門部を中核として併せて衛士も配属する。太古より宮城の門の警備を担ってきた氏族であることから、衛門府と称せられた。職掌は宮門を守衛し通行者を検察する。758年天平宝字2年)に、藤原仲麻呂による官号の唐風化の一環として司門衛と改称したが、藤原仲麻呂失脚後の764年(天平宝字8年)に再度、衛門府に改称される。808年(大同3年)7月22日に左右衛士府に併合されることによって、左右衛士府として一本化される。
職員構成

四等官における長官「かみ」に当たり、官位相当正五位上。799年(延暦18年)4月27日に従四位下に昇叙し、以後定着する。定員は左右各1名。

四等官における次官「すけ」に当たり、官位相当は従五位下。799年(延暦18年)4月27日に従五位上に昇叙し、以後定着する。定員は左右各1名。
大尉・少尉
四等官における判官「じょう」に当たり、官位相当はそれぞれ従六位下正七位上。定員はそれぞれ左右衛府及び衛門府各2名。
大志・少志
四等官における主典「さかん」に当たり、官位相当はそれぞれ正八位下従八位上。定員はそれぞれ左右衛府及び衛門府各2名。

その他に

医師 - 正八位下相当

門部 - 宮門を守衛

衛士 - 宮門を守衛

物部(通行人を検察)、使部、直丁らがいた。→(番上を参照)

また衛士府に併合されるまでは被官として

隼人司を有した。(その後は兵部省に移管)

後期束帯縹袍を着用した衛門像

811年弘仁2年)11月28日に左右の衛士府を改組して、これをあらめて左右の衛門府と改称した。大内裏の外郭のうち、建春門建礼門宜秋門朔平門より外側で陽明門殷富門朱雀門偉鑒門より内側を警備することが職掌だったが、後代にはこれが検非違使庁によって奪われた。検非違使庁も当初は衛門府内に置かれ、衛門府の官人が検非違使を兼務していたためである。左衛門の陣所は建春門に、右衛門の陣所は宜秋門にそれぞれあった。
職員構成

従四位下に相当。定員は左右各1名。権官はなかった。中納言参議が兼任することが多く、また左右兵衛督を加えた計4名のうちの1人が検非違使別当を兼ねるのが慣例であった。唐名は金吾大将軍・監門大将軍。

従五位上に相当。定員は左右各1名。権官があった。左右衛門権佐は検非違使宣旨を蒙る例であった(正官である左右衛門佐は検非違使を兼ねない)。唐名は金吾将軍・金吾次将・監門小将軍・監門次将。
大尉・少尉
それぞれ従六位下正七位上[1]に相当。定員はそれぞれ左右各2名だったが、後に増員されていった。唐名は金吾長史・金吾校尉・監門長史。通常大尉には公家が、少尉には武家が任命された。


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