衛輝路(えいきろ)は、中国にかつて存在した路。モンゴル帝国および大元ウルスの時代に現在の河南省北部一帯に設置された。
モンゴル帝国第4代皇帝モンケを始祖とするモンケ王家の投下領であった。
歴史を前身とする。クビライが第5代皇帝として即位した1260年(中統元年)に総管府に昇格となり、録事司が設置された。1266年(至元3年)には府から路に昇格となり、あわせてモンケの子のアスタイの投下領(実質的にはモンケ一族全体の投下領)に設定された[1]。なお、この年はカイドゥの乱が勃発した年でもあり、衛輝路の設置はかつて帝位継承戦争で敵対したモンケ一族を自勢力に留めるための懐柔策という側面があったと考えられている[2]。
1268年(至元5年)にはアスタイの庶弟のシリギが河平王に封ぜられたが、これはシリギがモンケ家の当主になった(=衛輝路の投下領を得た)ことを示すものであり、「河平王」という王号も衛輝路の旧名(河平軍)に由来するものであった[3]。しかし、シリギらモンケ家の王族は1276年(至元13年)にシリギの乱を起こして大元ウルスと敵対し、叛乱の失敗後はカイドゥ・ウルスに亡命したため、衛輝路の権益は棚上げの形となった。
その後、カイドゥ・ウルスの解体に伴ってモンケ家の王族が再び大元ウルスに降ると、アスタイ家のオルジェイがモンケ家の当主として投下領を差配するようになった。オルジェイは1305年(大徳9年)に衛安王[4]、次いで1310年(至大3年)に衛王に封ぜられた[5]が、これらの王号は衛輝路に由来するものであった[6]。
しかし、オルジェイの子のチェチェクトゥがバヤンによって謀殺されてしまった頃からモンケ家は没落していき、1336年(後至元2年)に衛輝路を投下領として与えられた衛王コンチェク[7]はモンケ家と関係のない人物であったとする説がある[8]。
朱元璋による明朝の建国後、1368年(洪武元年)に衛輝路は傅友徳らによって攻略され、衛輝府と改められた。
[9] 衛輝路には録事司、4県、2州が設置されていた。 [10]
管轄州県
4県
汲県
新郷県
獲嘉県
胙城県
2州
輝州
淇州
脚注^ 『元史』巻95志44食貨志3,「睿宗長子憲宗子阿速台大王位。歳賜、銀八十二錠、段三百匹。……五戸絲、癸丑年、査過衛輝路三千三百四十二戸」
^ 村岡2013,97-98頁
^ 村岡2013,98頁
^ 『元史』巻108表3諸王表,「衛安王。完沢、大徳九年封、至大三年進封衛王」
^ 『元史』巻108表3諸王表,「衛王。完沢、至大三年由衛安王進封」
^ 村岡2013,104-105頁
^ 『元史』巻39順帝本紀2,「[至元二年]秋七月丙午……以衛輝路賜衛王寛徹哥為食邑」
^ 村岡2013,116-117頁
^ 『元史』巻58志10地理志1,「衛輝路、下。唐義州、又為衛州、又為汲郡。金改河平軍。元中統元年、升衛輝路総管府、設録事司。戸二万二千一百一十九、口一十二万七千二百四十七。領司一・県四・州二」
^ 『元史』巻58志10地理志1,「[永平路]録事司。県四:汲県、下。倚郭。新郷、中。獲嘉、下。胙城。下。旧以胙城為倚郭。憲宗元年、還州治於汲、以胙城為属邑。州二:輝州、下。唐以共城県置共州。宋隷衛州。金改為河平県、又改蘇門県、又升蘇門県為輝州、置山陽県属焉。至元三年、省蘇門県、廃山陽為鎮、入本州。淇州、下。唐・宋・金並為衛県之域、曰鹿台郷。元憲宗五年、以大名・彰徳・衛輝籍餘之民、立為淇州、因又置県曰臨淇、為倚郭。中統元年、隷大名路宣撫司。至元三年、立衛輝路、以州隷之、而臨淇県省」
参考文献
箭内亙『蒙古史研究』刀江書院、1930年
松田孝一「オゴデイ・カンの『丙申年分撥』再考(2)」『立命館文学』第619号、2010年
村岡倫「モンケ・カアンの後裔たちとカラコルム」『モンゴル国現存モンゴル帝国・元朝碑文の研究』大阪国際大学、2013年
表
話
編
歴
元朝の行政区分
腹裏
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上都路
興和路
保定路
河間路
永平路
徳寧路
浄州路
集寧路
応昌路
全寧路
寧昌路
泰寧路
真定路
順徳路
広平路
彰徳路
大名路
懐慶路
衛輝路
東平路
東昌路
済寧路
砂井総管府
曹州
濮州
高唐州
泰安州
徳州
恩州
冠州
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益都路
済南路
般陽路
寧海州
河東山西道
大同路
冀寧路
晋寧路
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和寧路
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益蘭州
謙謙州
河南江北道
?梁路
河南府路
襄陽路
?州路
黄州路
南陽府
汝寧府
帰徳府
淮西江北道
廬州路
安豊路
安慶路
江北淮東道
揚州路
淮安路
高郵府
山南江北道
中興路
峡州路
安陸府
徳安府
荊門州