日本の政治家衛藤 征士郎えとう せいしろう
2001年2月26日、アメリカ合衆国国防総省本庁舎にて
生年月日 (1941-04-29) 1941年4月29日(83歳)
出生地 日本統治下朝鮮 全羅南道康津
出身校早稲田大学第一政治経済学部卒業
早稲田大学大学院政治学研究科
国際政治専修修士課程修了
所属政党(無所属→)
自由民主党(宮澤派→河野派→安倍派→無派閥)
称号政治学修士(早稲田大学・1973年)
公式サイト衆議院議員 衛藤征士郎 OFFICIAL WEBSITE
衛藤 征士郎(えとう せいしろう、1941年〈昭和16年〉4月29日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(13期)。
衆議院副議長(第64代)、防衛庁長官(第57代)、参議院議員(1期)、大分県玖珠町長(2期)[1]「日本・スイス友好議員連盟」会長、「日本・スウェーデン友好議員連盟」会長、「日本カナダ友好議員連盟」会長、「日本パナマ友好議員連盟」会長、「日朝国交正常化推進議員連盟」会長、「日韓議員連盟」会長代行、日華議員懇談会顧問など友好議員連盟会長職多数を歴任[2][3]し議員外交を通じて外交手腕を発揮。
来歴2007年9月25日、衆議院により内閣総理大臣に指名された福田康夫(中央)を他の議員らとともに祝福
当時父・衛藤貫一は、警察官であり日本の統治下であった朝鮮半島南部全羅南道の康津に赴任しており衛藤家の三男として生まれる。1945年9月、終戦により日本へ引き揚げ、郷里である大分県玖珠郡玖珠町で育つ[4]。
1948年、玖珠町立日出生小学校に入学するが、1950年に玖珠町立森小学校に転校。1957年、大分県立森高等学校に進学するが、5人の男子を育てる両親の苦労を目にし家計を助けるべく農業・炭焼きに従事し学費を捻出すべく同年9月から休学。1959年に高校に復学し、1962年に高校卒業。上京し、早稲田大学第二政治経済学部に入学する。1964年、学内の転部試験に合格し、第一政治経済学部に転部。在学中は吉村正教授に師事し、1966年に卒業。早稲田大学大学院政治学研究科国際政治専修修士課程に進学し、現職の町長時代に政治学修士号を取得する[4]。
1970年、大分県玖珠郡玖珠町に戻り、豊後森駅前のビルの一室に「衛藤征士郎政治経済研究所」を開設[要出典]。翌1971年、玖珠町長選挙に立候補し、29歳で初当選。(当時、史上最年少町長)玖珠町長は、1977年まで2期務める。
1977年、第11回参議院議員通常選挙に、政治団体「国政に新風を送る会」公認で大分地方区から出馬し、日本社会党から2期目の当選を目指した工藤良平を24,571票差で破り36歳で参議院議員初当選(同期最年少)を果たす。
その後、自民党議員の村上勇(旧大分1区、当選12回)が政界引退を表明したため、1983年第37回衆議院議員総選挙に後継者として立候補し、衆議院旧大分1区(定数4)に転出。保守系無所属で出馬し、現職に競り勝ち衆議院議員に初当選(得票数4番目で)した。以後、衆院当選13回。1986年、第3次中曽根内閣で農林水産政務次官に任命される[4]。
1995年、村山改造内閣で防衛庁長官に任命され、初入閣した。1998年、大勇会(河野グループ)の旗揚げに参加。2000年、第2次森改造内閣で外務総括政務次官に閣僚経験者としては異例の任命をされ、中央省庁再編後は初代外務副大臣を務める。外務副大臣在任中、台湾総統(当時)・李登輝の訪日を実現した[要出典]。なお当時の外務大臣だった河野洋平は、李登輝へのビザ発給に最後まで難色を示していたため、衛藤は河野洋平との関係に終止符を打ち[要出典]、大勇会を退会した。その後、清和政策研究会に入会する[要出典]。2007年12月、朝鮮半島の平和と安定を図るべく「自由民主党朝鮮半島問題小委員会」を自由民主党政務調査会内に立ち上げ、委員長に就任した[要出典]。2008年自由民主党総裁選挙では、同じ町村派に所属していた小池百合子の推薦人代表を務めた[5]。