衛?
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衛 ?(えい かん、220年 - 291年)は、中国三国時代から西晋の軍人・政治家。は伯玉。司隷河東郡安邑県の出身。父は尚書令衛覬。弟は衛寔。目次

1 生涯

1.1 若き日

1.2 蜀漢征伐

1.3 西晋黎明期

1.4 統一後の栄進

1.5 賈南風との対立と最期


2 逸話

3 子孫

4 参考文献

5 関連項目

生涯
若き日

10歳の時に父の衛覬を亡くしており、母の陳氏に対しては人一倍孝行を尽くしたという。後に父の爵位である?郷侯を継ぎ、後に尚書郎に任じられた。当時の魏は法が厳しく過酷であったので、陳氏は衛?の身を心配した。そのために、衛?は自ら請願して通事郎に移り、さらに中書郎に移った。当時、曹爽を始めとした権臣が政権を掌握していたが、衛?は彼らと親しくしなかったので傅?からは大いに重んじられ、ィ兪(ィ武子、春秋時代)に例えられた。10年もの間、中書郎の職務を務め上げ、その仕事ぶりを称えられた。その後、散騎常侍に昇進した。

260年曹奐が即位すると、衛?は侍中を拝名し、持節を与えられて河北の慰労に当たった。その功績により食邑を加増された。数年後には廷尉卿に移った。衛?は法理に明るく、訴訟の裁決を行う際は些細な案件も重大な事案も情をもって対応に当たった。
蜀漢征伐

263年司馬昭の命で征西将軍ケ艾・鎮西将軍鍾会蜀漢征伐の兵を興すと、衛?は廷尉卿・持節をもってケ艾・鍾会の軍事の監査を命じられた。蜀漢が平定されると、謀反の意思を抱いた鍾会はケ艾を失脚させようと画策し、ケ艾が朝廷の許可を得ずに専擅を行っていると衛?に訴え、衛?もこれに同意して朝廷への上奏を行い、ほどなくケ艾捕縛の詔を受け取った。この時、鍾会はケ艾が衛?を殺害し、さらにケ艾の罪が加わる事を期待していた。自らの身の危険を察知した衛?は、夜中に密かにケ艾軍の諸将を掌握した上でケ艾・ケ忠父子を捕え、洛陽へと護送する事に成功した。

しかし後に実は鍾会こそが謀反を企んでいたことが発覚すると、胡烈胡淵と共に反乱を平定し鍾会を滅ぼした。さらに直後にケ艾の部下たちが護送中の主君を助け出そうと向かうと、ケ艾の報復を避けるべく彼と確執のあった田続を通じてケ艾・ケ忠父子を殺害した。朝廷は衛?の功績を賞したものの、ケ艾父子を殺害したことで世間の非難を買った。
西晋黎明期

265年、魏から禅譲を受けてが成立すると、衛?は司馬炎に大いに信任され、征東将軍に移って爵を?陽公に進められた。269年には都督青州諸軍事・青州刺史・征東大将軍・青州牧に、271年には征北大将軍・都督幽州諸軍事・幽州刺史・護烏桓校尉に任じられた。当時、幽州の東には烏桓が、西には鮮卑拓跋部拓跋力微が割拠し、いずれも辺境を荒らしていた。衛?は烏桓と拓跋力微が対立するよう仕向け、烏桓を晋に帰順させる事に成功した。

また衛?は、拓跋部の勢力を削ぐため、諸大人(たいじん、有力者)に賄賂を送って積極的に離間工作を行い、英邁な才覚を有していた拓跋力微の息子である拓跋沙漠汗を讒言して陥れるように仕向けた。拓跋力微がこれを信じ込むと、諸大人は拓跋力微の命と偽り沙漠汗を誅殺した。さらに277年、拓跋力微は病気を患ったので烏桓王庫賢に軍を任せたが、庫賢もまた衛?の賄賂を受け取っていたので、拓跋部の諸大人へ「可汗(拓跋力微)はお前たちに乗せられて子を殺したことを恨み、全ての大人の長男を殺すよう命を下された」と告げると、諸大人はこれを信じて驚き離散してしまった。これにより、拓跋部の勢力は大いに弱体化した。278年、再び洛陽に召喚されると、尚書令・侍中に任じられた。
統一後の栄進

晋が呉を滅ぼした後の283年には、衛?は三公の一つである司空に昇進した。衛?の政治は清簡であったので、大いに天下の名声を得た。司馬炎は勅命を下し、衛?の四男の衛宣に繁昌公主(司馬炎の娘)を嫁がせた。衛?は自らが諸生に過ぎない事からこれを固辞しようとしたが、認められなかった。さらに、太子少傅を加えられ、千兵と百騎と鼓吹を加えられた。衛?は日蝕を理由に太尉司馬亮司徒魏舒と共に官位を降りようとしたが、認められなかった。

衛?は魏の時代に制定した九品官人(中正)法について否定的な意見を示している。この法はあくまで混乱期に政権を安定させるための暫定的な制度であり、これが続くと貴族の門閥化を促進するものであるから、これを廃止して郷里での選挙による人材確保を復活させるべきであると主張し、太尉司馬亮らと共に上疏した。司馬炎はこの意見に理解を示していたが、制度が改められる事はなかった。

当時皇太子に立てられていたのは司馬炎の嫡子である司馬衷であったが、衛?は従前よりその暗愚さから司馬衷の素質を疑問視しており、ある日の宴席にて衛?は酔った勢いで帝の御前に跪くと、帝の椅子を撫でながら「この座は惜しまれるべきでございます」と暗に司馬衷の廃嫡を勧めた。司馬炎はその意図を悟ったものの、とぼけたふりをして「公は本当に大酔しておるな」と述べるに留め、衛?もそれ以上何も口にしなかった。しかし司馬衷の妃であった賈南風は、この一件以来衛?を怨むようになった。また衛?は司馬衷の嫡子であり皇太孫であった司馬?に関しても、和?と共に「皇太孫は聡明ではあるが、軽薄な性質が案じられる」と常々吹聴していた。

武帝の治世の晩年は、皇后である楊?の父であった臨晋侯楊駿外戚として権勢を振るっていた。290年1月、衛?の四男の衛宣は司馬炎の娘の繁昌公主(中国語版)を娶ったが、楊駿はかねてより疎ましく思っていた衛?を失脚させるべく宦官らと共謀し、酒癖の悪さを理由に衛宣を弾劾して繁昌公主と離婚させた。これに危機感を抱いた衛?は老齢を理由に政務を離れる事を請い、名誉職である太保への昇進を認められて自身の邸宅へと身を戻した。司馬炎は後に、宦官が衛宣の過失を過剰に申し立てていたことを知ると、繁昌公主と衛宣を復縁させようと考えたが、衛宣はこの一件で病んでしまい既に亡くなっていた。
賈南風との対立と最期


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