尾崎豊の音楽アルバムおよび楽曲については「街路樹 (尾崎豊のアルバム)」をご覧ください。
街路樹のある道路
シャンゼリゼ通り(フランスのパリ)イチョウの街路樹(大阪市御堂筋)ケヤキの街路樹(宮城県仙台市青葉通り)プラタナスの街路樹(大阪府高槻市南平台)
街路樹(がいろじゅ)とは、街路(市街地の道路)に沿って植えられた樹木のこと[1]。 街路樹は主に高木のことを指すが、低木・地被植物も含む[2]。 日本語には、並(なら)んで立っている木々を指す「並木(なみき)」という表現があり[3][注 1]、街路樹の多くは市街地の道路に沿って複数並んで立っていることが多いので、そうした街路樹群を市街並木(しがいなみき)と呼ぶこともある[注 2]。 都市の美観の向上や道路環境の保全、歩行者等に日陰を提供することなどが目的である。一般に、歩道の車道寄りや中央分離帯に植えられる。街路には多くの制約があり、必ずしも等間隔で木が並んでいるわけではない。道の左右において非対称であることも多く、道の片側にしかない場合もある。 古くは今から3000年ほど前に、インドのカルカッタ(コルカタ)からアフガニスタンまでを結ぶ、大幹道に街路樹が設けられたという。(→歴史) 街路樹の法的な位置付けは国ごとに異なる。 世界で最も古い街路樹は、約3000年前にヒマラヤ山麓に造られた街路、グランド・トランク・ロード
概説
歴史グランド・トランク・ロードの街路樹(パンジャーブにて)幕末における東海道の松並木
日本では、神功皇后が豊浦宮へ行幸、駅路を定めた際にクスノキを植えて作られた並木が初の街路樹とされるが、正確な時期や場所は特定されていない[4]。6世紀後半の敏達天皇の治世に、難波の市にクワの並木を作ったとされ、8世紀半ばの聖武天皇の治世には、平城京にタチバナとヤナギの並木が作られた。また、光明皇后は貧しい人が飢えないよう、都大路にモモとナシの木を植えて並木道にしたと言われる。
さらに、754年(天平勝宝6年)に帰朝した遣唐使の僧・普照は、唐の諸制度とともに、並木・街路樹の状況も奏上した。普照の奏状には、「道路は百姓(当時の用語では、一般大衆の意味)が絶えず行き来しているから、樹があればその傍らで休息することができ、夏は暑さを避け、飢えれば果樹の実を採って食べることができる」と記された[5]。これを受けて、759年(天平宝字3年)、太政官符で畿内七道諸国駅路の両辺に果樹となる並木・街路樹の植栽を決めた[6]。これが日本における行政主導の街路樹のはじめである[6]。
8世紀後半の桓武天皇の治世には、平安京にヤナギとエンジュが約17メートル間隔に植えられ、地方にも果樹の並木が植栽された。鎌倉時代にはサクラ、ウメ、スギ、ヤナギの並木が植えられた。戦国時代には、織田信長が旅人の安全、快適な交通を確保するために並木道を作ったと言われる。
江戸時代には、五街道など道路網が整備され、マツ、スギ、ケヤキなどが植えられた。街道には並木が作られるとともに、1里(約4キロメートル)ごとに一里塚が造られ、距離の目印、休憩場所として利用されるようになった。また市街地の川沿いの道などにはヤナギやマツが植えられた。約1万2500本が現存する日光杉並木(現在の栃木県)はギネス世界記録に認定されている[7]。
欧米では、1615年にアムステルダムが環状運河計画の中に建物・交通機関・樹木を定め、欧米初の公的に街路樹を計画した都市となった。パリでは1670年に城壁を壊して大通りを建設した際に、モミジバスズカケノキの街路樹が植えられた。アメリカ合衆国では、1700年からフィラデルフィアが街路樹の植樹を率先して行った[8]。
幕末の開国後には、1867年(慶応3年)、横浜市の馬車道にヤナギとマツが植えられた(1979年、横浜市は馬車道に石碑「近代街路樹発祥之地」を建てた。これに対し、近代の定義が曖昧な事に疑問を呈する人々もいる)。
東京の都市緑化事業での街路樹は、1874年(明治7年)、銀座通りにサクラとクロマツが植えられたのが始まりである。しかし、木の成長が悪く、1884年(明治17年)にシダレヤナギに植え替えられた。1906年(明治39年)に長岡安平が林学博士・白沢保美と子爵・福羽逸人(ふくばいつせん)に計画依頼し、街路樹の改良計画が急速に進展した。1907年(明治40年)、両者により街路樹の改良計画が立てられる。10樹種が街路樹として選定・植栽され、現在の街路樹の元となり、今まで継承される樹種の基本となった。
スズカケノキ、イチョウ、ユリノキ、アオギリ、トチノキ、トウカエデ、エンジュ、ミズキ、トネリコ、アカメガシワ(以上10種)
東京・明治神宮外苑で大正時代に植えられたイチョウ並木のように、建物(聖徳記念絵画館)と組み合わせた景観を計算されて街路樹を整備する取り組みも行われた。詳細は「聖徳記念絵画館」を参照
1919年(大正8年)に定められた街路構造令では、歩車道分離に加えて街路樹の整備も盛り込まれた。1926年(大正15年)11月28日に完成式典が行われた第一京浜(現国道15号)改修工事の東京都区間では、街路樹にプラタナスやアカシアが用いられた[9]。 街路は木にとって楽な環境ではない。自動車の排気ガスを浴びることが障害の筆頭で、植えられる土が狭く固い場合(そうならない方が例外である)には、それも問題になる。これらには耐性が強い樹種と弱い樹種がある。20世紀後半から各地で街路樹に夜間の電飾をかけるようになったが、これも木にとっては負担要素である。成長すると、交通信号機や道路標識の視認を確保するため、枝を払う必要が出てくるが、これにも耐性の違いがある。
樹種の選択