行田足袋
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行田足袋(白足袋)行田足袋(色柄足袋)

行田足袋(ぎょうだたび)は、埼玉県行田市に本社を置く企業が製造する足袋である[1]

江戸時代中期に産業として誕生し、以来、約300年にわたり行田は日本有数の足袋生産地として知られる[2]。「行田」という地名は、江戸時代には忍城城下町の町人町で、1889年明治22年)の町村合併以後は忍町の字名のひとつであったが、行田足袋が広く知られるようになったことから、1949年昭和24年)5月3日に忍市として市制施行しながら、即刻「行田市」と改称するきっかけとなった[3]

行田足袋は国の伝統工芸品[4]地域団体商標[5]であり、行田足袋とその関連資料5,484点は国の重要有形民俗文化財に指定されている[6]2017年平成29年)には、行田足袋の保管のために建造された足袋蔵等とともに「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成文化財として日本遺産にも認定された[2]
概要

江戸時代中頃に中山道宿場町の需要を見込んで生産され、下級武士や農家の婦女子の副業として家内手工業において発展した。明治維新によって身分制度が撤廃されたことにより、需要・生産力ともに向上した。明治時代の後半には、機械化によって生産工程の細分業化や工場での大量生産が可能となり、大正時代から昭和初期にかけて全盛期を迎えた。行田足袋は、1938年(昭和13年)頃には日本全国の足袋生産の8割を占め、1955年(昭和30年)頃まで行田市域の地場産業であった。

行田の足袋産業は小企業が多くを占めたことに加え、さらに内職として下請けに出されるため、行田の街全体が足袋生産工場の様相をなした。どこの裏路地に入ってもミシンの音が聞こえるほどに、全盛期の行田では大多数の住民が足袋を縫っていたという[7]。足袋生産に時間をかけるために、手軽に食べられる「ゼリーフライ」などの料理が郷土食として定着した。

和装の衣装として一般的な白足袋のみならず、多様な色足袋、柄足袋を生産し、地方ブランドとして確立した地位を築いた[1]。1954年(昭和29年)にナイロン靴下が発売されると急激に需要が落ち込み、昭和30年代には産業としては衰退に向かったが、21世紀においても全国シェアの35%を占める日本一の足袋産地である[8]。発祥以来、各足袋商店が東京など大都市圏の問屋を通さずに直接取引によって利益を上げつつ、他の足袋商店と専売先を競わずに共存共栄していった地域産業の形態に特色がある[9]

2017年放送の池井戸潤の小説を原作としたTBS系テレビドラマ「陸王」で注目された[10]
歴史
地理的背景行田足袋に用いられる青縞(藍染)と白木綿の糸

利根川荒川に挟まれた行田市一帯、熊谷以東の地域では、これら河川の氾濫で堆積した砂質土に荒川の伏流水を多く含む層と豊富な水、夏季に高温になる気象条件が綿花の栽培に適していた[2]第一銀行を創業した渋沢栄一もこの地方の藍商人であったという[3]。綿花の栽培は、明治時代中頃まで盛んに行われ[11]、これらを原料として、農家では藍で染色した糸で織った青縞織や白木綿を副業として製織した[3]

行田足袋は、こうした地産の青縞織や白木綿を原材料として活用し、江戸時代の中頃から作られ始めた[12]。ただし、青縞織も白木綿も足袋の甲の表地向きの木綿であり、足袋底に用いる木綿は当初から他の産地から移入する必要があった[13]。このため、近代以前から足袋商人は独自のルートを全国に開拓し、各地の織物生地を幅広く仕入れる必要があった[13]。仕入れ先や産地の違いは、織物の生地の品質が一定にならないということであり、足袋の出来栄えを左右した[14]。このため行田の足袋産業は主に仕入れた材料の品質に対応した少量多品種生産の形態をとった[14]

行田は関東七名城のひとつ忍城の城下における町人町の区画であり、要衝の町であった[3]。足袋は中山道の交通に目をつけた近隣の熊谷宿を中心に始まり、当初は旅装や武装として手甲脚絆などを制作する長物師が足袋も製造したが、その需要を見込んで、やがて農家や下級武家の内職としても製造されるようになった[7][15]
江戸時代江戸時代の足袋職人(『人倫訓蒙図集』より)

行田足袋の発祥は「貞享年間亀屋某なる者専門に営業を創めたのに起こり」と伝わり、文献では享保年間(1716年?1735年)頃の「行田町絵図」に3軒の足袋屋が記されている[2][1]1735年(享保2年)の村井昌弘の木版本『単騎要略』に「木綿の刺たびを外縫に製して用ゆべし。今世関東にて、おし刺など云は、其上品なり」と記録され、1657年(明暦3年)の明暦の大火で鹿皮が不足して作られるようになった木綿の足袋が「其上品なり」として、「おし刺(忍、すなわち行田産の差し縫いによる木綿足袋)」が挙げられている点は、足袋の風俗史からみても注目されている[16]。行田足袋は1765年明和2年)の「東海木曽両道中懐宝図鑑」には「忍のさし足袋名産なり」と広く知られるまでの産業に成長した[2][1][7]。三浦忠軒文書に「1804年(文化元年)10月亀谷又七郎にて足袋を求めた」記録が残され、1805年(文化2年)の『木曽路名所図絵』にも「吹上の茶屋にて忍さしの足袋ををあきなふ」と記されている[16]

足袋には株仲間がなく、比較的自由な取引が可能であったことから盛んに製造され、天保年間(1830年?1844年)の頃には27軒の足袋屋が軒を連ねた[2]。当時の足袋は1針ずつ手で縫い付ける差底(さしぞこ)のつくりで、生産に極めて手間がかかり、そこに内職として低賃金で賄える多くの人手を必要とした[7]。農家が内職として足袋製造を行うようになったのは、江戸時代末頃からとされる[11]。行田足袋は、旧忍町(現在の行田市)を中心に、この周辺地域の人々の経済的な相互協力によって支えられ発展した[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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