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この項目では、千葉県市川市の地域名について説明しています。東葛飾郡に存在した町については「行徳町」を、その他の用法については「行徳 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
行徳(ぎょうとく)は、千葉県市川市の南部、江戸川放水路以南の地域名である。昭和中期までは市川市南部に加えて浦安市の元町地区(当代島・北栄・猫実・堀江・富士見)と船橋市沿岸部及び東京都江戸川区東篠崎を指す本行徳を中心とした広域地名でもあった。現在では、一般的に旧東葛飾郡行徳町の江戸川放水路以南、旧南行徳町の全域を指して使われる。江戸時代には製塩が盛んに行われ(行徳塩田)、生産された塩は舟で大消費地の江戸に運ばれた。
現在では市川市の区域の一部であるが、これは昭和30年代の合併によるものであり、地理的にも市川市の行政の中心である八幡(やわた)地区や商業の中心である市川地区(JR総武線と京成本線の沿線)とは幅約100 - 200メートルの江戸川放水路によって隔てられていて、東京23区方面と船橋市方面を結ぶ東京メトロ東西線が通り、地続きで最近では地域性も似通ってきている浦安市との関係が深い。タウン誌や不動産広告などでは「浦安・行徳地区」という地域区分がよく見受けられる。
沿革
江戸時代、大津波が行徳を襲ったという話がある(ただし、当時の記録によれば、その多くは台風の直撃などにより発生した江戸川の決壊による洪水及び江戸内海(江戸湾)の高潮(しかも同時に襲う事も珍しくなかったという)であったと見られる。寺院の節も参照のこと)。
1889年(明治22年) - 伊勢宿、関ヶ島など16村が合併し東葛飾郡行徳町が誕生、新井、欠真間など5村が合併し東葛飾郡南行徳村が誕生する。
1937年(昭和12年) - 南行徳村が南行徳町となる。
1955年(昭和30年) - 行徳町が市川市に合併。
1956年(昭和31年) - 南行徳町が市川市に合併。
行徳塩田詳細は「行徳塩田」を参照
行徳では、かつて製塩を行う農家が多く行徳塩田と呼ばれた(ただし、現在の「行徳」とは一致せず、浦安や船橋の塩田も含まれている)。製塩は天候の影響を受けやすく、収入が不安定なため、副業として小規模な塩田を所有する農家が多かったという。
行徳での塩の生産は戦国時代には行われていたが、徳川家康は万が一の際に江戸城が必要とする塩を確保するために行徳塩田を保護した。以後、江戸幕府は塩田の保護とともに江戸と行徳を結ぶ街道や水路の整備を行った。
江戸時代後期には十州塩などの下り塩の江戸流入によって行徳の塩は脅かされたものの、北関東などに販路を広げることで活路を見出し、明治以後には製塩の近代化も進められた。だが、塩の専売化に伴う生産調整や高潮・水害の影響もあって衰退し、最後まで残った塩田も戦後のキティ台風に伴う高潮によって廃止を余儀なくされた。 明治時代、総武線を行徳地区に通す計画があったものの、漁民や、対岸に船を出す船頭たちによって計画が消え、発展せずに昭和を迎えた。 大正8年(1919年)に江戸川放水路が開削される。これにより行徳町が分断される。 昭和34年(1959年)から海面の埋め立て事業が始まり、昭和40年(1965年)からの第三次埋め立て事業で約16万平米の埋め立てが完成し、ほぼ現在の行徳地域の姿が出来上がった。この埋め立て地に多数の工場や倉庫などが誘致された。 昭和44年(1969年)に営団地下鉄東西線(現・東京メトロ東西線)の行徳駅が開業し、鉄道がない地域のため「陸の孤島」と言われた行徳地区が変貌し始める。昭和48年(1973年)から土地区画整理事業による宅地開発が行われ、東京都心へのアクセスがよい割に安価なベッドタウンとして発展する。
工業地帯・ベッドタウンへの変貌