行幸
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源氏物語の1帖については「行幸 (源氏物語)」を、廃止自治体については「行幸村」をご覧ください。
昭和天皇行幸碑の例(広島県福山市第18回都市対抗野球大会開幕式における昭和天皇香淳皇后三笠宮崇仁親王の行幸啓(1947年8月3日)

行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が居所から外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸という[1]

また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)という場合もあるが、これは上皇法皇女院に対しても使う。
語法

皇后皇太后皇太子皇太子妃の外出を行啓(ぎょうけい)/巡啓(じゅんけい)というほか、行幸と併せて行幸啓(ぎょうこうけい)/巡幸啓(じゅんこうけい)という。単に「行幸啓」といった場合には、天皇と皇后が一緒に外出することを指す場合が多い。

行幸啓した皇族が外出先から帰ることを還幸(かんこう)、還啓(かんけい)、還幸啓(かんこうけい)という。

日本書紀には「天皇幸」で、天皇の行幸となり、「天皇至自」で、天皇の還幸と言う意味になっている。一方、「天皇」が外れると、皇族もしくはそれに近い者の行幸、還幸と言う意味になる。行幸して儀式などに臨む場合、臨幸(りんこう)という。


これら以外の皇族の外出は御成り・お成り(おなり)、お成りをした皇族が外出先から帰ることを御帰還(ごきかん)という。

行幸の際に宿泊するところを行宮(あんぐう、かりみや)という。[2]

行幸に際し、地名や社名が付く場合がある。特に、目的地を持った行幸には地名が付くことがある。例えば、住吉大社に行幸する場合は「住吉行幸」などと呼ばれる。また、鎌倉時代の書物の中には「鞍馬御幸」などの表記もうかがえる。江戸時代に入ると、慶安4年2月25日(1651年4月15日)の後光明天皇による朝覲行幸以後、文久3年3月11日(1863年4月28日)の孝明天皇による上賀茂神社下鴨神社行幸まで行幸は行われなかった(ただし、火災等による御所移動時の行幸は除く。また、天保8年(1837年)には江戸幕府との合意によって仁孝天皇による朝覲行幸が計画されていたが、対象となる光格上皇の病気と崩御によって実現されなかった)[注 1]。明治の「東京行幸」は行幸という言葉を使い、その形態を装っているが、実質的な東京奠都という意味で用いられる。

現在、宮内庁法他に用いられる法令用語でもある[注 2]
官報

独立行政法人国立印刷局が発行する官報には、天皇・皇后の行幸啓があった場合、下記の項目が掲載される。

行幸啓した者(天皇の行幸・皇后の行啓・両者の行幸啓)

行幸啓先とその目的

出門と還幸啓の日時

具体的には、下記の例のように掲載される。天皇陛下は、九月二十八日午後零時四十一分御出門、第百六十五回国会開会式に御臨場のため、国会議事堂へ行幸、同一時十九分還幸になった。(平成18年10月2日月曜日付官報第4434号より引用)
歴史上著名な行幸啓神戸税関行幸記念碑。1899年(明治32年)11月、居留地撤廃を記念しての行幸。
第107代後陽成天皇


聚楽第行幸:1588年天正16年)4月14日-18日

第108代後水尾天皇


二条城行幸:1626年寛永3年)10月25日 - 10月30日

第122代明治天皇


地方巡幸:1868年明治元年)以降[6]

1872年5月23日-7月12日 大阪、中国、西国(近畿、四国、九州)

1876年6月2日-7月21日 東北

1878年8月30日-11月9日 北陸道東海道

1880年6月16日-7月26日 山梨県三重県京都府

1885年7月26日-8月12日 山陽道山口県広島県岡山県


第124代昭和天皇
在位中、沖縄県を除く46都道府県に行幸した。

戦後巡幸1946年昭和21年)2月から一時期の中断をはさんで1954年(昭和29年)まで

皇太子時代の1923年(大正12年)に台湾行啓摂政時代の1925年(大正14年)に樺太行啓も行われている。

第125代天皇(現:上皇明仁
在位中、全47都道府県に行幸した。
明治天皇「聖蹟」

史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定されていた明治天皇の行在所等の「聖蹟」[7]は、1948年(昭和23年)6月29日付け、昭和23年文部省告示第64号によって一斉に指定解除された。同告示(『官報』6435号所載)には指定解除物件の一覧がある。
四大行幸啓

天皇は毎年開催される以下の行事には皇后を同伴して行幸するため、「四大行幸啓」といわれる。

全国植樹祭

国民スポーツ大会

全国豊かな海づくり大会

国民文化祭

この時には当該行事に臨席するだけでなく、天皇、皇后の希望により地域の高齢者福祉施設、障碍者福祉施設の視察・行幸啓を計画に入れるのが慣例になっている。
古代の行幸

のちの女帝持統天皇は正式即位前の持統天皇4年(690年)正月に吉野宮に行幸したが、その後も吉野へ行幸し、計31回となる。これは(天武天皇が天皇号を称したのち)天皇としての権威や正当性を補い、強化するための行幸とみられ、皇后就任の地としての吉野宮を訪れることで、先の女帝である皇極(斉明)天皇と同様に、天皇としての資格・正当性を宣伝する意味合いがあったとされる[8]

天平15年(743年)に聖武天皇恭仁宮から紫香楽宮に行幸した際に五位以上が28名、六位以下が2370名随行(当時の用語では「陪従」と呼ぶ)したと記されている(『続日本紀』天平15年4月辛卯条)他、また他の奈良時代から平安時代にかけての他の行幸でも1000名以上の随行が確認できる行幸が複数確認できるため、天皇の行幸となるとその1000名もしくは2000名クラスでの陪従者が発生したと考えられる。行幸に際しては律令官人は天皇に随従する「陪従」と宮都を守護する「留守」を務めるものとされ、特に前者は功労として位階の授与が与えられる場合があった。また、公式令には中国の例に倣って天皇の行幸時には皇太子監国を務めて留守を守ることを前提とした条文が存在しているが、史書で確認できる行幸では皇太子が陪従している事例がほとんどで、皇親議政官が「留守官」に任じられて天皇の留守中の宮都の管理を行っていた[9]


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