血盟団
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血盟団事件
廷内で深編笠を被る血盟団事件の被告
場所 日本東京府
日付1932年昭和7年)2月から3月
概要暗殺テロリズム
武器拳銃
死亡者井上準之助
團琢磨
犯人血盟団
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血盟団事件(けつめいだんじけん)は、1932年昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ(政治暗殺)事件。

血盟団と呼ばれる暗殺団によって政財界の要人が多数狙われ、井上準之助團琢磨が暗殺された。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることが多い。
「血盟団」「血盟団事件」の名前の由来

一般に「血盟団事件」と呼ばれているが、正式名称を「血盟団」とした集団が存在したわけではなく、厳密にいえば俗称である。

1930年末に、当時井上日召が利用しようと考えて関係を深めていた日本国民党が開いた忘年会の席での党委員長寺田稲次郎による発言が発端である[1]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「君たちは南アにおけるダイヤモンドのようなものだ。しかも、血のつながりのあるものだ。血盟された五人だ。(中略)血盟五人組だ。」

これ以後、井上の周囲に集まったグループを指して、一部の国家主義者たちがひそかに「血盟団」と呼ぶようになった[1]。しかし、井上たちが自称したものでも正式名称でもなく、彼らは自分達に名前を付けることを拒み続けた[1]

また、事件の新聞報道では当初「血盟五人組」と呼ばれ、その後は「血盟団暗殺団」「血盟団」が使われた[2]

「血盟団事件」という名称は担当検事だった木内曾益による命名である[3]。井上が後年出版した獄中手記『梅乃実』の中には「吾々は団体として何の名目も付けて居なかったが、官憲の方で事件発生後勝手に命名した」と書かれている[4]。しかし、井上はこの呼び名を受け入れたという[3]

井上は自身を中心とするグループに正式名称を付けることを拒否し続けたが、本項目では、慣習に従って、井上とそのもとに集まった青年グループを指して「血盟団」という名称を用いる。
血盟団・血盟団事件の性格

血盟団のメンバーは、井上日召以下、大洗組[注釈 1] (古内栄司、小沼正菱沼五郎、黒澤大二、照沼操、堀川秀雄、川崎長光)、東京帝大グループ (四元義隆〈法学部〉、池袋正釟郎〈文学部〉、田中邦雄〈法学部〉、久木田祐弘〈文学部〉)、京都グループ (田倉利之〈京都帝大文学部〉、森憲二〈法学部〉、星子毅〈法学部〉) とその他 (須田太郎・國學院大學神学部生) の計16名である[5][注釈 2]

血盟団員の中で重要な役割を果たしたのは、大洗グループ内の古内と東京帝大グループの四元の2人である。また、血盟団員ではなく事件にも直接の関与はできなかったが海軍将校の藤井斉は重要な役割を果たした人物である。藤井は、元来実力行使に慎重だった日召をテロリストに仕向けた張本人であり、東京帝大グループや京都グループ、海軍将校と井上を結びつけ、大洗の小さなグループに過ぎなかった血盟団をより広域に活動するグループへ変貌させることに大きく寄与した。

血盟団は井上の思想に強く感化されたカルト集団だと言える[6][注釈 3]。また、井上の思想の底流にあるのは、ある種の仏教的神秘主義である[7]田中智学が創始した日蓮主義を基本として、仏教的神秘主義と、皇国思想・国家改造に対する熱望が合わさって、井上日召が独自に思想形成したものであると言える[8]

井上の思想には、田中智学からの影響が明白である[9]。実際、井上の思想形成の初期段階で大きな影響を与えたのが、田中による『日蓮上人乃教義』であり、この書物は井上だけでなく古内栄司にも大きな影響を与えた[10]

ただ、井上の思想の論理が粗雑であることは否定しがたい。井上は若いときから、代表的な国家主義者 (田中智学、北一輝) の著書を読み、主唱者 (例えば、北一輝、上杉慎吉大川周明安岡正篤) のもとを訪ねている[11]。例えば、井上は1924年に1度上京していた時期に北一輝の『日本改造法案大綱』を読んで、北に会いたいと思い北のもとを訪ねている[12]。また、大川周明のもとを訪ねた時には、人はいくらでもいるから、国家革新には金が一番重要だ、と言われて腹を立てたこともあった[13]。大川の大アジア主義が、白人を追放してアジアを解放するという考えであり、差別主義的であると思われたので、大川からも得るところはなかった[13][注釈 4]

結局は彼らの主張に共感できず、最終的に自身の思想を理論化することを放棄した[14]。井上の興味の中心は実力行動であって、理論的な話は空虚であると考えて興味を持たなかった。

一方で、血盟団のメンバーが思想的に一枚岩だったというわけではない[15]。たとえば、権藤成卿に対する評価は団員の間で大きく割れていた[16]。権藤の思想は、「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}社稷(しゃしょく)」という古代中国の概念[17]を日本に当てはめた農本的国家主義思想[17]で、それに最も共感したのが四元だった[16]。また、血盟団ではないが藤井斉も強く共感した[18]

しかし、池袋は権藤には若干懐疑的であり、国家社会主義には反対、権藤の漸進主義にも反対[19]、極端な天皇主義者でいわゆる「日本精神」に影響された小沼は「社稷」にはまったく反対だった[20]

井上たちに、要人暗殺後の国家改造計画の具体策は全くなかった。むしろ、そのようなものを計画することを積極的に放棄していた[21]。彼らの論理は、自分たちがテロによって要人を殺害し捨石になることで、後続の国家改造の先鞭を付けたいという単純なものである。

したがって、血盟団事件自体はクーデター計画でもその未遂事件でもなく、事件の直前には井上自身は単なるテロではなくクーデターを指向していたが、それに同調する血盟団のメンバーはいなかった[22]

血盟団事件は昭和初期から始まった超国家主義者によるテロ事件[注釈 5]の嚆矢として知られ[注釈 6]政治学の分野などでもしばしばその基点として扱われる。典型的には丸山真男による超国家主義の研究があり、日本のファシズムに関する古典的研究である丸山による『日本ファシズムの思想と運動』では全体で3期に分けられた日本のファシズム運動期間のうちの第2期 (急進ファシズムの全盛期) の起点として血盟団事件がとらえられている[24]
経緯
前史

血盟団は前述の通り井上日召を中心としたカルト集団であり、日召のカリスマ性と日蓮主義に強く影響されているため非常に宗教色が強く、また、日召のパーソナリティの強い影響下にあった。そのため、血盟団や血盟団事件を理解するためにはどうしても日召の前半生を振り返らねばならない。

血盟団を主導した井上日召の本名は井上昭、大洗町の立正護国堂の住職を任されるなどしたが日召に僧籍はない[25]。古い文献では日召を日蓮宗の僧と書くものがあるが誤りである。文献によっては日蓮宗の布教師と紹介するもの[26]もある[注釈 7]

日召の父親は神風連の乱に参加したことのある[27]国粋主義思想の持ち主で、日召も子供の時分からその影響を受けた。

日召という号の由来は、1924年にかねてからの知り合いで老ジャーナリストだった朝比奈知泉のもとを訪ねた際に、朝比奈が「井上君、君の名は面白い名前だね」「二つに分け給へ、日召となるよ」と言われたことにある[28]


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