「血液型占い」とは異なります。
血液型性格分類(けつえきがたせいかくぶんるい)とは、ある人の性格が、その人の血液型によって特徴づけられるとするステレオタイプである。ABO式血液型によって、A型は?な性格、B型は?な性格、などといったように分類されるとする。
1971年頃、能見正比古(1925年 - 1981年)と能見俊賢(1948年 - 2006年)の親子が発表した著作によって広く認知された。1970年代から2000年代前半にかけて、多くのテレビや書籍が血液型による分類を広め[1]、ブームとなったが、血液型性格分類を信じる人々による差別などが社会問題化した。現在、日本の心理学においては、血液型と性格の間には統計的な関連は認められないという見解になっている(ただし、自己成就現象についてこの注釈も参照)[2]。 西洋では歴史的に見て、性格を類型に分類し、それとは別の類型との関係を論じる説が提唱されてきた歴史がある(類型学)[3]。例えば、医学の基礎を作ったヒポクラテスは「体内には血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液という4種類の体液があり、これらのバランスが崩れると病気にかかる」と述べ、また「体液のバランスが性格にも関わる」と述べた(四体液説)。ヨーロッパでは中世まで、こうした説が信じられていた(現代の医学は、医聖ヒポクラテスに敬意を払ってはいても、これらの説に関してはナンセンス、と判断している)[3]。 ABO式の血液型が発見されるのは1901年のドイツでのことである[4]。ドイツでは当時ハイデルベルク大学のガン研究所の教授だったE・フォン・デュンゲルン(Emil von Dungern この年代には白人A型人種優秀論として、実際とは異なるが白人にA型が多く東洋人にB型が多いと提唱されて人種差別につながっていた[4]。原は1916年の『医事新聞』で血液型で知的レベルを決定してしまうのは厳しすぎると、人種差別を批判した[4]。「○○人は血液型が...型だから優秀なのだ。○○人は血液型が...型だから劣るのだ」といったような説明(現在では間違いとされる病的科学)がまことしやかに学説として唱えられていた[注釈 1]。 ナチス・ドイツも人種差別を正当化するために、血液型性格診断を利用していた[3]。血液型の遺伝の仕組みは当時から知られていたため、「血液型=性格」であれば性格は遺伝で決まることになり、「ゲルマン系ドイツ人の血統が優れている」としたい彼らにとって好都合だった[3]。1932年にドイツで出版された『血液型便覧』には「ドイツ人に多い血液型」を優れた血液型とし、「高い知能」「勤勉」などと肯定的なことが書かれ、一方で「ユダヤ人やアジア人に多い血液型」を劣った血液型として、「暴力犯罪者」「精神薄弱」「感染に弱い」などと非常に否定的なことが書かれた[3]。 昭和初期には、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授であった教育学者古川竹二が、血液型と気質の関連を科学的な研究対象にしようとする一連の試みが広く注目を浴びた。古川の最初の論文は、1927年に『心理学研究』誌上に発表された「血液型による気質の研究」である[注釈 2]。その後に一連の試論の集大成として1932年に『血液型と気質』が出版された。同書の内容が古川学説とされることが多い[注釈 3]。 古川学説は、当時金沢医科大学教授であった古畑種基らに支持され、心理学だけではなく、医学、教育など多くの分野で注目を集め、その影響下で多くの調査がなされた[注釈 4]。このため数多くの追試が行われたが、血液型と気質の関連を論じる際に例外が多過ぎることから、最終的に古畑は懐疑的になり、結果的には学会で古川学説は否定された。 大日本帝国陸軍においても古川学説の影響を受け、血液型から将兵の気質・能力を分類することで、部隊編成の際に最も適した兵科・任務にあてることができるとの考えから、各部隊から将兵の調書を集め研究が行われた。1926年、大日本帝国陸軍軍医の平野林と矢島登美太が、「人血球凝集反応ニ就テ」を『軍医団雑誌』に発表した。これは、血液型から兵隊としての資質を判定したものであった。統計的に意味のある結果は出なかったものの、科学的考察を加えるに足るものとして唱えられていた[10]。しかしその後の同様の研究では、期待した結果は得られず、1931年に中止された。
血液型性格分類の歴史
西洋における類型学
ABO式血液型の発見
古川竹二の『血液型と気質』